パーフェクト・ノーマル・ファミリー

ある日、父親が女性になると宣言する

11歳と14歳の娘を持つ父親がトランスセクシュアルするデンマークの映画です。LGBTQをテーマにした映画も随分多くなってきましたが、この映画はその当事者である父親に焦点をあてているわけではなく、11歳の娘がそのことをどうとらえ、どう変わっていくかを描こうとしています。

その視点自体もこれまであまりなかったのではないかと思いますが、さらにこれがマルー・ライマン監督の実体験にもとづいているということですのでちょっと驚きです。ライマン監督はこの映画のエマと同じように11歳で父親が女性になった(正確な意味はわからない)経験をしているそうです。

パーフェクト・ノーマル・ファミリー / 監督:マルー・ライマン

トランスジェンダー、トランスセクシュアル

LGBTQに関する用語は結構難しいところがあります。現在の日本では、トランスジェンダーという言葉は性別違和を感じる状態から性別適合手術を受けて性別移行した状態までかなり広い範囲で使われています。正確には性別違和を感じる状態をトランスジェンダーと言い、当然その状態をどうするかは個々の問題ですので、すべての人が性別適合手術を受けて性自認と身体的性を一致させるわけではありません。ですので、実際に性別適合手術を受けた状態はトランスセクシュアルとしたほうがいいのではないかと思います。

この映画の父親トマスはトランスセクシュアルを選択します。トマスは結婚もし、14歳と11歳の二人の子どもがいますので40歳前後と思われます。映画は、11歳のエマを描くことが主題ですのでトマスの内面的なことにはまったく触れられていません。いつから性別違和を感じていたのかも語られませんし、身体的女性への移行もトントントンと進んでしまいます。

まず、初っ端からトマスとヘレ夫婦が11歳のエマと14歳のカロリーネに離婚することになったと告げ、その理由はトマスが身体的女性に移行することにしたからと言います。すでに数ヶ月前からホルモン治療を受けているとも言っていました。離婚することは妻のヘレが望んでいるようでした。

そして、次のシーンでは、時間の経過がわからないまま家族そろってのカウンセリング(じゃないかも?)となり、トマスはタイへ行って性別適合手術を受けることになっていると言います。

さらにその次のシーンでは、トマスは性別適合手術を受け女性として性自認と身体的性を一致させたトランスセクシュアルとして登場します。これ以降、トマスはパパではあるが女性としてエマやカロリーネに対します。もちろん社会的にも女性として認知された状態として描かれていきます。トマス本人が差別的な扱いを受けたりする描写は一切ありません。

ライマン監督には父親がこう見えていた?

トマスのこの描き方が映画を表面的なものにしているような気がします。

トマスは迷いなく自分の道を突き進みます。エマに理解してもらおうとするシーンもありません。エマと話し合おうとするシーンもありません。であれば、映画はエマが父親トマスの行為を受け入れられないことを描くしかありませんし、受け入れていく過程をいろいろなエピソードで描いていくしか方法はありません。

映画はそのように進みます。エマにとってみればかなりつらく当たられている印象の映画です。姉のカロリーネは最初から一貫して父親の変化を受け入れています。受け入れないエマを子ども扱いします。母親のヘレはそもそも登場シーンが多くありません。トマスは、愛していると言い抱きしめるだけで理解して欲しいと説得しようともしません。

きっと11歳のライマン監督にはこのように父親が見えていたんでしょう。それがこの映画のトマスになっているんだと思います。

しかし、やはり映画としては、トマスの苦悩とエマの苦悩をシンクロさせていく方法をとらないとなかなか深いものにはならず表面的なエマの行動を追うだけになってしまいます。

好感は持てるが映画は単調

ライマン監督もそのことをわかっているのかもしれません。映画に変化をつけようとしたのか、現在(といっても1990年代らしい)の時間軸のところどころにエマが生まれてからの成長記をホームビデオ映像で挿入しています。アスペクト比も変えてスタンダードサイズにし、それらしく映像も荒れたものにしています。数シーンは入っていたと思います。

11歳のエマはサッカー少女です。地域のサッカーチームに所属しているようです。エマの友達関係のシーンもほぼすべてサッカー絡みで描かれます。

エマの拒絶感はなかなか消えません。行ったり来たりの印象です。当然ですよね。文化や環境にもよりますが、まず身体的性を変えること自体を理解することが難しいと思われます。その点では、この映画のエマには現実感があるとも言えます。なにかドラマチックなことが起きて変化するといった描き方はされておらず、最後まで大きな変化はなく、パパとしては好きだけれども身体的女性の姿であったり、社会的に女性として振る舞っていることに混乱をきたしている状態がとてもうまく描かれています。

この点は好感が持てます。これが日本映画であれば、社会からの偏見や差別でエマの孤立感を描いたりする方法がとられそうですが、この映画ではそうしたシーンは、子どもたちがエマの父親を揶揄するシーン1ヶ所しかありません。その時エマは何も言わず無言のままウォッカをがぶ飲みしてぶっ倒れています。

といった感じで最後まで特に決定的なことが起きるわけでもなく、エマもトマスを受け入れたわけでもなく、トマスはトマスで我が道を行き、姉のカロリーネの堅信式では姉への思いをエマが歌で披露したりとエマとトマスとカロリーネを中心に映画は進みます。母であり妻であるヘレの存在感がうすい映画です。

そして、ラスト近く、トマスが転職してロンドンへ移ることになります。で、不思議なことに、これに関しては突然姉のカロリーネがこのことにショックを受け拒絶し始めます。エマはあまり明確な態度は示しません。やや違和感のある展開です。

映画は、ロンドンを訪ねたエマとカトリーヌのホームビデオ映像で終わっています。

映画の印象は悪くないのですが、結局、はっきりした印象を残さず映画は終わっています。エマの受け入れられなさは理解できますが、それだけを表面的に描いていっても映画的ではないということでしょう。

特別ドラマティックにエマの変化を描く必要はありませんが、心の動きをもう少し明確に描いていかないと単調に終わるということです。やはり、性別移行の当事者である父親との精神的関係を軸にすべきなんだと思います。

わたしはロランス

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