エリザベート 1878

求められる女性らしさと老いに苦しむ1878年のエリザベート…

ミュージカルにもなっているオーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリザベート(エリーザベト)の映画です。伝記映画ではありません。タイトル(邦題)に1878とあるように、エリザベートが40歳になる1878年一年に絞った映画です。

エリザベート 1878 / 監督:マリー・クロイツァー

フェミニズム映画なんだが…

最初に率直に言っておきますが、まったくもっておもしろくありません。つくり手の意識が前面に出過ぎていて映画として楽しめる要素がありません。ただし、映画としての出来はよくなくてもやろうとしていることに意味がある映画もありますので、そのことを否定するものではありません。

コルセットに象徴される「抑圧された女性像」としてのエリザベートが自由を求めて反逆する姿を2時間見せられ続ける映画です。また、エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1837年12月24日 – 1898年9月10日)という人物が歴史の教科書に出てくるような文化を共有しているのであれば、また違ったものが見える映画かと思います。

ところで原題の「Corsage」は、いわゆる「コサージュ」のことで、英語では服につける小さな花束を指しますが、ドイツ語では「コルセット(Korsettもある…)」を意味するようです。エリザベートが「もっときつく」と侍女にコルセットの紐を締めさせ、さらに胴回りの寸法を書き記させるシーンがありましたが、そのものズバリのタイトルということです。

映画全編を通してそのコルセットに締め付けられ続けるエリザベートが、その窮屈さ、不自由さから逃れようとする様が描かれる、いわゆるフェミニズム映画です。

1878年が持つ意味、老い…

年月がかなりの頻度で表示されます。最初が何月から始まっていたのか記憶はありませんが、映画が描こうとしていることから考えますと、エリザベートが40歳になる1877年12月だったのじゃないかと思います。

1877年12月24日、エリザベート40歳の誕生パーティーです。蝋燭を吹き消します。その時、本人だったか、ナレーションだったかで、もう消えてゆくだけだ(みたいな感じ…)と入っていたと思います。

つまり、コルセットも同じ意味ですが、女性に求められ、またエリザベート本人も自らの価値と思っていたであろう「女性らしい美しさ」が40歳にして終わるという意味です。求められる美を保つために減量に苦しんでいたとの史実もあるらしく、また必然的に老いというものがやってきます。フランスの例でいいますと、当時の平均寿命は40歳代半ばです。

この映画のエリザベートは、外から求められる「女性らしい美しさ」とともに、抗うことの出来ない「老い」とも戦っているということです。

マリー・クロイツァー監督がなぜ1878年に限定したエリザベートを描こうとしたかはそこにあるのだと思います。

ただ、くどいようですが、それが映画として成功しているとは思えないということです。

この映画がつまらないわけ…

なぜこの映画はつまらないんでしょう(私だけにしても…)。

一番はこうしたドラマ映画に必要な変化がないからです。

エリザベートの苦しみ、つらさ、不満は最初の2、3シーンでわかります。印象としてはそうした同じようなシーンが半分くらいを占めます。コルセットをつけるシーン、その苦しさに耐えられるようにバスタブに沈んで訓練するシーン、夫フランツ・ヨーゼフに怒りをぶつけるシーン、皆がおいしそうに食べている最中に紙のように薄く切ったオレンジをと言ったりする晩餐シーンなどが繰り返されます。

問題は同じようなシーンがあることではなく、それらが繰り返されるだけで、エリザベートの息苦しさ、苦しさが増幅していくような描き方がされていないことです。

残りの半分のうちのその半分はエリザベートがその苦しさのはけ口を求めるシーンです。映画ではいとこと言っていましたがバイエルン王のルートヴィヒ2世と戯れるシーン、乗馬の指導員の男性との性的関係を試みるシーン、世界で初めて動く写真を撮った人物ルイ・ル・プランスの被写体となるシーンなど、こうしたシーンがエリザベートが追い詰められていく中にうまく有効に収められていません。

そして残りの1/4(あくまでも印象です…)が、終盤エリザベートが髪を切り、ヘロインに溺れ、ついには自殺するという映画の完全なる創作(多分…)シーンです。

エリザベートを好意的にみていないのかも…

今ふと思いましたが、マリー・クロイツァー監督はエリザベートという人物を好意的にみていないのかも知れません。

考えてみれば、エリザベートを見る映画の目が冷たいです。そう感じるのは、エリザベートを演じているヴィッキー・クリープスさんが立ち過ぎていることもあるのですが、確かに同情的には感じられませんし、冷めた目で見ている感じもあります。

いい人シーンもありません。自らは愛を求めますが、子どもたちに対しても夫に対しても愛しているような描き方はされていません。それに、あの時代に侍女たちに愛をといっても始まりませんが、苛立ち紛れにコルセットを絞められない侍女を罵倒しますし、別の侍女には自分の身代わりにコルセットをさせて吐かせていますし、様々なところで現代的な解釈がされている割には、自らの皇后という立場がどれだけの犠牲の上に成り立っているかをほんの僅かでも感じるわけではありません。

ラストシーン、現実にはしていないわけですから自殺という意味ではないかも知れませんが、あまりやさしい終わり方とは言えません。やはりマリー・クロイツァー監督はエリザベートを好意的には捉えていないのかも知れません。

最後に、ロケシーンでは実際に残っているヨーロッパのお城がいくつか使われていると思われますが、それらが何となく古びたままでしたし、庭などにも草がはえていたりしてとても整備されているようには見えませんでしたが、あれは意図した演出なんでしょうね。室内はスタジオかとは思いますが、壁の装飾や小道具にもどことなくらしさが感じられませんでした。見間違いではなく、また演出だとしますと、それもあまりうまくはまっている感じではありませんでした。