東京人間喜劇/深田晃司監督

かなり凝った構成の作品で、こうした作り込みこそが深田監督がやりたいと思っていることではないか…

「ほとりの朔子」の深田監督、2008年の作品です。40分ほどの3作品がオムニバス、というより、登場人物がからみ合いながら繋がっていく連作といった方がいいかもしれません。バルザックの「人間喜劇」と呼ばれる作品群の手法とのことです。

「ほとりの朔子」よりも深田監督のやりたい(だろう)ことが感じられる作品です。全て青年団の俳優ということもあるかも知れませんが、それよりも、かなりじっくり作り込んだ?練り込んだ?印象が強く、構成にこだわっていることが伝わってきます。

「白猫」人間の思い違いや些細な行き違いを相当意図的に描いています。まあこれだけ実時間と異なったタイミングでことを起こせば、行き違いも起きるわさ(笑)といった感じですが、そのズレを見せようとしていると考えれば眠気も防げます。人間同士が関わる時に生まれる熱気をあえて遮断した編集と考えるべきでしょう。

「写真」自分をカメラマンと称する女性が展覧会を開く話です。展覧会にもオープニングパーティにも誰も来ないとか、本物の(というのも変だが…)カメラマンに知ったかぶりをして恥(本人は思っていないよう)をかくとか、かなり切ない話なのに、まあ多かれ少なかれ芸術ってこんなもんだからということなのかもしれません。

「右腕」事故で右腕を失った青年とその妻の話。

映画からかなり話はそれますが、「青年とその妻」とは書きましたが、「青年と」と書いて女性の方を何と表現するのだとつまってしまいましたが、そういえば「青年」は男女共に使える言葉ですね。でも一般的には女性に対して「青年」と言うのでしょうか? もともと両性に使っていた言葉が男性中心社会で間違った使用法になってしまったのか、わたしの見方が偏向しているのか、どうなんでしょう?

で、事故、実は事故ではなく自殺かもしれないのですが、車にひかれ右腕を失った男と妻の女の話です。四肢を失った時に起きるらしい幻肢痛を軸に、夫婦の溝?じゃないですね。夫はお腹の子供が自分の子ではないと結婚する前から知っていたわけですから復讐劇なんでしょうか、いや復讐が目的と思えるほどの動機が描かれているわけではありませんからそれも違いますが、まあいずれにしても、この作品だけは妙にドラマチックさが際立っています。ただそれもドラマとしてのドラマチックさではなく、構成としてのドラマチックさとでも言うべき、展開としては種明かしのようなもので、何となく分かったような気がしますが、よくよく考えてみるとなぜ妻は浮気をしていたのかとか、なぜそれでも結婚したのかとか、なぜ自殺しなくちゃいけないのかとか、なぜ今ばらすのかとか、まるで必然性がないドラマチックさなわけです。結局、ドラマとしては、夫の話自体が噓かも知れないのですが、そういう愛憎劇が目的ではなく、構成上のクライマックスということなのでしょう。

ということで、かなり凝った構成になっている作品で、こうした作り込みこそが深田監督がやりたいと思っていることではないかと思います。

そういえば、3作品ともゴミ袋のゴミが意味ありげに使われていました。どんな意味があるのかはともかく、そうした様々なことを巧みに織り込んで、それらをどう読み解くか観客に楽しませる作品を撮る監督のようです。