出だしはやや退屈ですが、中盤からはお母さんの存在感に惹きつけられ、そしてラストは「そっちか!?」とびっくり!
グアテマラの映画です。昨年のベルリンで、銀熊アルフレッド・バウアー賞を受賞しています。
久しぶりにびっくりしました! この手のびっくりは「父の秘密」以来です。
ドンデンとか、秘密が明らかになるとか、そういった部類のことではありませんので、それを知ったからといって映画が楽しめなくなるわけではありませんが、でもやっぱり言えません。
17歳になるマヤ人のマリア(マリア・メルセデス・コロイ)は、農業を営む両親と共に暮らしていた。両親は、土地の持ち主でコーヒー農園の主任であるイグナシオにマリアを嫁がせようとする。しかし、マリアは青年ペペに惹かれていた。アメリカに行くというペペに、マリアは悩んだ末に身を任せてしまうが、ペペは一人で旅立ってしまう。(公式サイト)
物語は、公式サイトにあるストーリー通りなんですが、ただ、農業とあっても、映画の舞台となっているマリアたちの暮らす土地は、ほぼ山岳地帯と言ってもいい場所で、日本人の感覚で言いますと、ここで農業?といった荒れた印象の土地です。
映画の中で、ある意味キーにもなっている、蛇が出るために種が撒けないという場所も、ロケ地の制約ということもあるのでしょうが、コーヒー栽培に適しているとは思えないようなところです。
映画の大半は、そうした荒涼とした山岳地のロケーションの中で、マリアたち家族の生活が淡々と描かれていきます。ですからしばらくは、そうしたマヤの末裔マヤ人たちの生活を描いていく映画なのかなと思って見ていました。
マリアと子どもを宿す相手のぺぺとの関係もさほど大きな扱いにはなっておらず、この先どうなるんだろうと思い始めた矢先、ぺぺが去り、マリアに子どもが出来たことが分かってからの中盤、俄然映画に力が生まれ始めます。
マリアとマリアの母ファナ(マリア・テロン)、そして父との関係、やがて生まれてくるだろう生命に対する価値観のようなもの、次第にそうしたものに焦点が合い始め、ああこういう映画なんだと引きこまれます。
特に、母ファナがとてもいいです。
マリアが、雇い主(というより農園の責任者)のイグナシオとの結婚が決まっていたにもかかわらず他の男の子どもを宿してしまったことを知っても、(意図してかどうかはわかりませんが)さほど驚くことも怒ることもなく、一時は堕胎させるために、煎じた薬草を飲ませて山で飛び跳ねさせたりしますが、結局「この子は生きる運命だ」と受け入れ、マリアを変わらず大切にし、誕生を待ちわびたりします。
それがとても自然で、力強く、映画の中盤からは、この映画、このファナの映画ではないかと思うくらいです。
父親もいいです。すべてを自然に受け入れますし、マリアのことで農園から出て行かなくてはならなくなっても、怒ることもなく、かと言って悲観するでもなく、あるがままを受け入れるという自然体です。
ただ、これは、そのように描こうとしているかどうかは何とも言えず、そもそも、母ファナは俳優ではあるようなんですが、それ以外のマリアや父親は地元のマヤ人にワークショップに参加してもらいながら撮っていったようですので、演技的なことを要求しなかった結果かもしれません。
そのあたりのことを、東京での上映時でしょうか、監督がティーチインで語っています。
いずれにしても、全体的なトーンはもちろん、ラストの「えっ、そっちへ行くのか!?」と、びっくりさせられたつくりにしても、ここで驚かせようとの意図はなく、そもそもハイロ・ブスタマンテ監督は、映画に作られたドラマを持ち込むタイプではないようです。
マリアたちの生活は、一貫して長めにフィックスで落ち着いた感じに撮られているのですが、後半、ことが起きるや、ロケーションが都会(グアテマラ?)に移るとともに、カメラが激しく動く手持ちに変わり、都会の雑然とした空気が捉えられています。
やり過ぎ感もなくうまいですね。
で、「えっ!?」となります。後は映画を見てください。
いい映画です。
中米の映画といいますと、メキシコを除けば、隣の国ホンジュラスを舞台にした映画「闇の列車、光の旅」を思い出しますが、共に「アメリカの影」を感じさせます。