これ、疑似父娘(ごっこ)じゃなくてマジ父娘でしょう
これ、映画になっていますかね?
映画とは何かなどと大仰に構えて語るつもりもありませんが、これ、事前に何も知らず、まっさらな状態で見たら何やってんだか全くわかりませんよね。
城宮(千原ジュニア)は、ニートで引きこもりなのに、BB弾を打ち込む子供たちに、ああやって毎回怒鳴っているんですかね?
城宮は、なぜ突然何かに取り憑かれたようにアパートの壁をよじ登ってまでヨヨコをさらいに行ったんですかね?
城宮はヨヨコに何をしようとしたんですかね?
なぜヨヨコは城宮を「パパやん」と呼んだんですかね?
なぜ城宮は実家に戻ったんですかね?
きりがありません。
人物にしても、行為にしても全く説得力が感じられません。嘘っぽいということとも違っていて、そもそも何かを伝えようと努力しているようにもみえません。あり得ないことをあり得るように見せるのは、映画が映画たる所以ですから、そういうことを言いたいのではなく、この映画は、固定観念、刷り込まれた価値観、ステレオタイプなものの見方などなど、たとえばニート=フィギュアみたいな凡庸な社会認識にあぐらをかいて作られているということです。
それに、あれは城宮(って知らないけど)ではなく、千原ジュニア本人だと思いますけど(笑)。
ニートに見せるには引きこもってフィギュアを作るシーンを入れておけばいい、ロリコン(らしい)に見せるには幼女を拐わせて襲わせればいい、我に返させるにはパパと呼ばせればいい、まずはそんな感じで(観客をなめた感じで)始まります。
シーン変わって実家、もうここからの城宮は、全くニートでもなくロリコンでもなく、商店街の住人たちとも抵抗なく馴染み、幼馴染のマチ(優香)とも久しぶりにあった同窓会のノリで会話し、ヨヨコともほぼ里親のような対し方でロリコンの面影(?)などまるでなく、なぜそんなにも変わってしまったかを描くこともなく、ヨヨコのパパやんの一言で憑き物が落ちたかのように社会に溶け込んでいます。
ロリコンが里親に変わることがあるとすれば、その変わりようを描くことが映画なんですけどね。
ヨヨコのために働く城宮って、全く違和感ないですやん。それだけ城宮を変えた何かとは何? それを描こうとするのが映画ですやん。(なぜ突然、やん?)
ヨヨコの母親の存在も説得力がありませんし、その母親を殺すだけのエネルギーが城宮に生まれた理由も説得力がありません。
これ、そもそも「ごっこ」じゃないんじゃないの。この父娘、疑似父娘ではなく、マジ父娘で、しっくりしているじゃないですか。 最初からつながっているじゃないですか。
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