「ミヒャエル・ハネケ監督に師事したC.B. Yi監督」の宣伝文句でポチッです。若い監督かと思いましたら、意外にも1976年生まれの47歳の監督です。映画は2021年の製作でその年のカンヌ国際映画祭ある視点部門で上映されています。「母の聖戦」「アフター・ヤン」「母へ捧げる僕たちのアリア」「LAMB ラム」「ONODA 一万夜を越えて」が出品された年です。
感情表現を避けて
映画の舞台は中国の都会と田舎との設定のようですが、撮影が台湾で行われていますのでどうしても台湾ぽく感じられます。それに都会と田舎の差があまり感じられません。C.B. Yi監督のインタビューによりますと、当初は中国で撮るつもりでキャスティングを進めていたが、主役のフェイに予定していた中国の俳優が降りたことと台湾から資金援助や協力が得られることになったため台湾で撮影されたようです。
物語はシンプルで、セックスワーカーとして働き田舎へ仕送りする男たちとそのうち二人の愛(憎…)が描かれます(だと思う…)。
ただし、感情的な表現方法を避けることが意図されているようで、ぐっと迫ってくるようなものはなく、じっと見つめているような映画です。俳優の感情表現も少ないですし、画も引いたフィックスがほとんどです。
ですので、愛と言っても激しく求め合うような映像はなく、物語自体もわかりにくいです。そもそも、しばらくは誰が誰だかよくわかりません。フェイ(クー・チェンドン)とシャオレイ(リン・ジェーシー)の二人が軸の物語なんですが、他にも同じような人物が登場しますので導入部分でつまずきます。
それに、フェイはセックスワーカーとして稼いだお金を田舎に送っているとの設定なんですが、その田舎の貧しさも伝わってきません。
感情表現を避けるそのこと自体は否定はしませんが、伝えたいことが伝わるかの視点も必要だとは思います。やはりそれ一辺倒ではメリハリがなく映画が平板になってしまうということだと思います。
C.B. Yi 監督
C.B. Yi 監督の経歴については、あまり明確なものがありませんが、中国生まれで10代でオーストリアに移住しており、ドイツ語が主言語のような記事もあります。ウィーン・フィルム・アカデミー(Vienna Film Academy)でミヒャエル・ハネケとクリスティアン・ベルガーに師事したとあります。現在の国籍はわかりませんがいずれにしてもヨーロッパが活動の場ということでしょう。
で、この「マネーボーイズ」のプロジェクトの始まりは、北京に1年間留学していた時に、母親の医療費のためにセックスワーカーをしている学生を知ったことからだそうです。ただ違うことを答えているインタビューもあります。そちらでは北京からオーストリアに学びに来ていた俳優のひとりから同様のことを聞いたとあります。
いずれにしても、この映画制作のスタートはセックスワーカーをして田舎に仕送りをしている男性がいることを知ったという点かとは思いますが、映画からは感じられるのはフェイとシャオレイの惹かれ合う関係のほうが強いです。
概念と表層
フェイとシャオレイは一緒に暮らしています。という設定らしいのですが、あまりよくわからなかったです。フェイはセックスワーカーとして働き田舎に仕送りしています。そのことをシャオレイがどう思っているのかわかりません。描かれていたかどうかもわかりません。つまり、ふたりが愛し合っているかどうかわからないということです。
ある日、シャオレイがあの客はやばいからやめろと静止するにも関わらず、フェイは客のもとに向かい暴行されます。シャオレイがその客に仕返しをしますが、逆にその仲間にやり返され足をやられます。その暴行事件のため(かどうかよくわからないが…)警察の捜査を受け、たまたまその場にいなかったフェイは逃げます。
考えてみればシャオレイもセックスワーカーをしていたということですね。それに、どこかに同じセックスワーカーをしていた男が女性と結婚するシーンがありましたが、この映画、あらためて考えてみますと、愛やセックスや結婚という概念から具象性を排除してその表層だけを見せているということになります。
一般的価値観で考えれば、フェイとシャオレイの間に愛があれば嫉妬も生まれます。他の男に抱かれていることに何も感じないということはありません。また、結婚相手の女性は相手の男性がゲイであるかどうか(それすら映画からはわからない…)、あるいはセックスワーカーであったことを知っているのかどうか、そうしたことを一切構わず結婚する(映画がさせている…)わけです。
この映画は、愛も憎しみもない人間関係をやっていることになります。何を見せたかったんでしょう?
とにかく映画は5年後になります。場所の設定がよくわかりませんが、フェイは同じようにセックスワーカーをしています。同郷のロン(バイ・ウーハン)がやってきます。ふたりは付き合うようになります。
このロンも、フェイが好きで近づいてくるのか、セックスワーカーとして稼ぎたいからなのかよくわからに人物です。これも同じことで表層だけが描かれていくということです。
で、映画としては、フェイがシャオレイと再会し、橋の上の長いカットがあり、キスするのかどうなのか、つまりよりが戻るのかどうなのかわからないまま終わり、ラストシーンはフェイとロンの過去のダンスシーンで終わっていました。
シャオレイは結婚していましたね。子どももいたかも知れません。なにせ、ずいぶん前に見た映画ですので間違っているかもしれません。
とにかく、概念だけで映画を作ってもダメだと思います。実際にセックスワーカーをして仕送りしている男性を取材するなりしてシナリオを書かないとどういう手法をとるにしても現実感は必要です。リアリズムじゃなくてもです。