星くずの片隅で

絶望の香港か…

私のプリンス・エドワード」に続いて香港映画です。こちらの製作年は2022年、映画の設定はほぼ撮影時期と思われる2020年、新型コロナウイルスによって世界中が騒然としていた頃の物語です。

星くずの片隅で / 監督:ラム・サム

絶望の香港か…

びっくりします。希望も何もあったもんじゃない話です。

一般的にこうした話ですとラブコメでハッピーエンドというパターンですが、この映画の主人公ザク(ルイス・チョン)は、社会的信用を失い、仕事を失い、母を失い、そして、恋人、あるいは妻になるかも知れない女性をも失って(ちょっと違うけど…)しまいます。

それでもザクはそれらすべてを怒ることなく受け入れます。これを絶望と言わずして何と言うのでしょう。

タイトルも「窄路微塵」です。文字面からの判断ですが、先の見えない道のホコリのようなものといった意味だと思いますし、映画の中でザク本人が自分(たち…)を塵みたいなものだと言っていたそのことでしょう。

ザクよ、怒れよ! と言いたくもなりますが、そうではなく、怒った後の絶望ということだと思います。言うまでもなく香港の…です。

裏切り続けるキャンディ…

2020年、新型コロナウイルス パンデミックの香港です。ザク(ルイス・チョン)はピーターパンクリーニング(小飛俠清潔公司)を経営しています。といっても自分ひとりだけの会社です。

冒頭のシーン、完全防護服のザクが消毒液を吹き掛ける作業シーンから始まるように消毒の依頼で忙しいのではと思いますが、如何せん消毒液の不足や休業や廃業の店も多く先は見通せません。車も故障がちで修理工場の友人からはディーゼル車を廃車にすれば補助金が出るからと買い替えを勧められています。しかし、経営状態に余裕はありません。さらに、母親はリウマチで思うように動けずその面倒もみなくてはいけません。

ところで、この修理工場の友人を演じていたのは「私のプリンス・エドワード」のジュー・パクホン(Pak Hon Chu)さんでした。

ザクは、そんな状態でもキャンディ(アンジェラ・ユン)が仕事を探しに来れば雇ってしまいます。清掃1ヶ所200香港ドルと言っていました。14円換算で2,800円です。

このアンジェラ・ユンさんは「宵闇真珠」を見ている俳優さんです。オダギリジョーさんが出ており、監督はジェニー・シュン、クリストファー・ドイル連名の映画でした。映画自体は生煮え気味でしたが、アンジェラ・ユンさんには「神秘的な雰囲気で魅力的」と書いています。当時25歳、現在30歳です。この「星くずの片隅で」では神秘さはまったくなく、かなり現実的な人物を演じています。

キャンディには5、6歳くらいの娘がいます。ザクの事務所と同じ建物のワンルームで暮しています。後に、子どもが出来たことを知った男が逃げたことや堕ろせと言われていたが生んでよかったとザクに語っています。

このキャンディ、演じているアンジェラ・ユンさんを立てようとしたのか、あるいはモデルということからなのか、いわゆるギャル系ファッションで、登場の度に衣装を変えていました。そうした行動に違和感のないキャラ設定でもあります。

このキャンディがザクを窮地に追い込んでいきます。

清掃作業中に顧客の家からマスクを盗み、ザクは顧客を失います。一旦解雇しますが、たまたまキャンディがコンビニで万引きする様子を見、また子どもがいることを知り、情がうつったのか、もう一度雇うことにします。しばらく順調に進みますが、消毒液の入荷が滞り、ザクが予約をキャンセルしようとしたところ、キャンディが消毒液を薄めることを提案し、ザクもついついそれに乗ってしまいます。

さらに、ザクの留守中、子どもが消毒液を大量にこぼしてしまいます。キャンディは床にこぼれた消毒液を集めてそのまま使います。当局の担当者が、ザクの会社が不正な清掃をしているとの通報があったと調査にやってきます。汚れた消毒液が見つかります。

ザクは犯罪者となります。ことはネットに拡散され、社会的信用を失い仕事も失います。

ザクが留守にしてキャンディに仕事を任せていたのは、母親が亡くなったからです。ある日、ザクが家に戻りますと母親が倒れています。救急搬送されますがそのまま帰らぬ人となります。母ひとり子ひとりのようで、ザクは失意に沈み、葬儀期間中の清掃業はキャンディに任せることにしたということです。

ザクの行いは善意か、情か、諦めか…

というようにザクを裏切り続けるキャンディですが、ザクが直接キャンディに怒ることはありません。当局の調査が入ったときもザクは状況を即座に理解しますが、それでもキャンディを従業員ではなくたまたま来ていた友だちだと言い、すべての罪を自分でかぶります。その後ひとりになり、仕事場の壁や道具に当たり散らすだけです。

あまりにもいい人ザクですが、そもそも映画はザクの行為をどう描こうとしているのでしょう。

この映画はザクの映画ですので、キャンディについてどうこう言っても始まりません。ザクを絶望の淵に追いやる役割の人物です。社会的な善悪判断ができず、目先の損得で行動する人物の設定です。万引きすることに抵抗感はなく、自分が欲しいと思うものが目に入ればそれが他人のものでも持ち帰ろうとします。映画ですから、見つけた時計を自分のものにしようとしたものの思い直して返すシーンもあります。だからといってキャンディが改心し真っ当に生きようとしたという映画ではありません。人情噺のパターンに過ぎません。

ザクの心のうちは、同情、愛情、それらが混在した情なのか、何なんでしょう。

ザクにはキャンディが一生懸命生きていると映るらしく、給与を徐々に上げていき、ついには共同経営者とならないかとまで言い、さらに今の住まいは環境が悪いからうちへ来ないかと言います。プロポーズのつもりのようでしたが、それまでも好意は持っているようには描かれていても恋愛を思わせるシーンはありません。キャンディにいたってはザクへの好意を感じさせるシーンさえありません。

疑似家族でしょうか。

ザクがキャンディの子どものことを気遣うシーンがとても多いです。ザクとキャンディの間に恋愛感情がなくても子どもを介せば家族は生まれるということなのか、実際には実現しませんが、ザクに家族というものへの渇望があることは間違いないでしょう。

ささやかな幸せがあればいい?

人が家族というものへ回帰する時、それは多くの場合、挫折し落ち込んでいるときです。映画のパターンとして、都会へ出た人間が挫折して故郷へ帰るのもそれです。

しかし、この映画はそれさえ許しません。ザクはキャンディに直接怒りをぶつけないと書きましたが、後日、なぜなんだ? と、キャンディに訳を教えてくれと懇願します。詰問するわけでもなく懇願です。

三流ドラマ(ゴメン…)であれば、ここはお互いに情を交わして癒やし合う場面になりますが、この映画はそんなベタなことはしません。キャンディは事実を話し謝罪はしますが、そもそもそれで済む話ではないわけし、実は子どもが…と、ここでも子どもを使っています。ザクの弱みをにぎっているみたいな話です(ゴメン…)。

いまだ疑似家族の幻を見ているのかも知れませんが、これでもザクの無償の行為は終わりません。ある時、キャンディが子ども連れでネットカフェ(みたいなものかな…)で働く姿を目にします。ザクは子どものためによくないからこんなところで働くなと、車を処分して手にした補助金(あれ、買い換えなくてもいいのかな…)をキャンディに渡るように子どもに託します。

一度は返そうとするキャンディですが、ザクにがんばれよと言われて受け取ります。

後日、ザクはキャンディと子どもがコスプレ大会に出場している姿を見ます。ん、どういうこと? と思いますが、元気でやっているということなんでしょうか(笑)。

ザクは警備員として働き始めており、そのことに不満はないようです。カメラは、ショッピングセンターか何かでしょうか、ザクが巡回中に見つけた汚された床をモップで清掃する姿を俯瞰でとらえて終わります。

希望などどこにもないという映画です。

映画のつくりは、過剰なところもなく、かなり細かいとこまでていねいにつくられています。カットされていると感じるところもなかったです。それでもしっかり見られますので奇を衒ったりすることのないうまさがあるということだとは思います。

しかしながら、ザクがこれでいいのだと思っているのだとすれば、あまりにも切なすぎるのではないかと思います。映画が、ささやかな幸せでいいのだと描く時は決していい時代ではありません。