家へ帰ろう

叙情的になりやすい物語をストイックにまとめた監督の手腕に拍手

大晦日に見ましたら、号泣でした(笑)。

家へ帰ろう

公式サイト / 監督:パブロ・ソラルス

「観客賞総ナメの感動作!」の宣伝コピーも嘘ではないですし、感動作云々以上に映画作りのセンスがいいです。監督でもあるパブロ・ソラルスさんのシナリオがいいです。主演のミゲル・アンヘル・ソラの頑なさとそれがかすかに解きほぐれる瞬間の表情も素晴らしく、その時、涙が溢れます。

88歳になるユダヤ人のアブラハムは、14,5歳の頃に故郷ポーランドでナチスの迫害にあい、一人アルゼンチンに逃れてきています。その時、唯一助けてくれた親友との約束、仕立て屋の家に生まれたアブラハムは仕立て屋の跡継ぎだったのでしょう、自分が仕立てたスーツを持って必ず戻ってくるとの約束を果たすべく、ポーランドへ向かいます。

ただ、人生も残り僅かになって70年来の約束を果たそうとしたというのであれば、それはそれ、単純に美談なんですが、実はアブラハムはその約束をすっかり忘れており、思い出したのは娘たちが自分を施設に入れようとするその日に、たまたまスーツを見て思い出したのです。

忘れていたというのは語弊があるかも知れません。実際、そのスーツは仕立ててあたったわけですし、アブラハムの家では「ポーランド」という言葉自体が禁句とされているくらい、決して思い出したくない記憶と結びついている故国ということになるわけですから、忘れていたわけではなく、ポーランドへ向かう決心がつかなかったというほうが正しいのかもしれません。

明日から施設に入る予定のその日、娘たちと孫たちが集まって記念写真を撮ろうとしています。

このシーンもうまいです。映画はほとんど娘たちの心情を描こうとしていません。浮かぬ顔のアブラハムと淡々とことをすすめる娘たち、そこには目に見えるような、つまり映画的な愛を見せるシーンは一切ありません。代わってあるのは、孫のひとりとの金銭的な駆け引きです。

どういうことかといいますと、孫のひとりが記念写真に加わりません。アブラハムが尋ねますと、写真が嫌いだからといい、iPhone6 が欲しいとぽつりともらします。いくらかと尋ねますと1000ドルだといい、アブラハムは200ドルあげるから写真に加わってくれと交渉が始まります。その駆け引きは、最後には800ドルまでいき、孫は妥協します。そこでアブラハムが「1,000ドルまであげるつもりだったのにお前は200ドル損をした」と言いますと、孫は「本当は600ドルなのよ」と言い放ちます。

この一連のシーンで、脚本&監督が何を意図したかは測りかねるところもありますが、少なくとも、この映画はベタなヒューマンドラマじゃないんだなということは伝わってきます。

この映画、こうした甘ったるさを拒否しているようなところは各所にあり、逆にそれが涙につながっていくわけですが、同じような意味で、ミゲル・アンヘル・ソラさんのキャスティングもぴったりはまっています。心の奥底に澱んだ世の中への怒りのようなもの、そして、そうした感情の裏返しの頑固さや身勝手さのようなものを感じさせます。

ということで、アルゼンチン(ブエノスアイレス)を旅立ったアブラハムの旅はロードムービー風の3つのパートで構成されていきます。マドリッド、パリ、ワルシャワ、映画ですからそのすべてでトラブルにあいますが、そのすべてで女性たちに助けられます。

それを都合がいいと言ってはいけません。アブラハムの頑なさとバランスがとれていて気にならないのです。それに、その女性たちとの会話によってアブラハムの過去が明らかにされたり、同時に映像として挿入される、アブラハムにとっては思い出したくもないポーランドでの記憶は、その女性たちの優しさや思いやりとは正反対の出来事なのです。

飛行機でマドリッドに降り立ったアブラハムはホテルに向かいます。ホテルの主人マリア(アンヘラ・モリーナ)は無愛想そのもの、アブラハムはここでも宿泊代の駆け引きをします。

ふと思いましたが、冒頭のシーンもこれも、ユダヤ人である監督の自虐ネタかも知れませんね。

それはともかく、アブラハムは疲れからか、寝過ごしてパリ行の列車に乗り遅れてしまいます。起こしに来たマリアはアブラハムの腕に刻まれた数字を目にします。

ここではそれだけだったと思いますが、こんな感じでアブラハムの過去が徐々に明らかにされていきます。映画がスムーズに流れていましたのでどこで何が語られていたかは記憶できていませんがアブラハムの過去とはこういうことです。

アブラハムの一家はポーランドのウッチという街で仕立て屋を営んでおり、使用人のポーランド人一家にはアブラハムと同年代の息子がいて兄弟のように育ったようです。また、アブラハムには物語をとても上手につくる妹がいて、その妹が、何かのパーティーのような場で物語を朗読するシーンが挿入されていました。

ナチス・ドイツがポーランドを侵略し、ポーランドでもユダヤ人の迫害が始まり、アブラハム一家もその犠牲となります。あまり具体的には語られてはいませんでしたが、父親は叔父たちとともに虐殺され、妹は自分の目の前で連れて行かれ、自分も収容所に送られたといったことを、「これは聞いた話ではない、この目で見たことだ」ときっぱりと言い切っており、その画を見せられるわけではないのですが、逆にずっしりとこたえます。

大戦末期、アブラハムは、ソ連がドイツにかわって侵攻してきた際に(だったと思う)収容所を逃げ出しウッチの家に戻ります。アブラハムは、住人たちの白い目にさらされ、傷だらけの顔で足を引きずりながら家にたどり着き、ドアをノックします。ところがその家は使用人であったポーランド人の手に渡り、アブラハムを家に入れたらまた取り返されるとドアは閉じられてしまいます。崩れ落ちるアブラハム。ふたたびドアが開き、兄弟のように育った友がアブラハムを家に入れようとします。その友は父親と言い争い、「お父さんはひどい人だ」と父親を殴り飛ばし、アブラハムを、もとは自分たちの住まいであった地下で匿い、アルゼンチンへ渡るために手助けをしてくれたのです。

というそのシーンが映像としてあるのですが、実はその時、それを見て最初に感じたことは、物語の興を削ぐようで申し訳ないのですが、え? 使用人といえども、そんな地下室みたいなところに家族を住まわせていたの? ということで、それが当時のヨーロッパではあたり前のことだったのか、監督に何か意図があるのかと気になって仕方ありません。

で、話を戻しまして、パリ行の列車に乗り遅れたアブラハムはホテルの主人マリアを食事に誘い、楽しいひと時を過ごした後、ホテルに戻りますと、部屋の窓が開いており、持っていた現金をすっかり盗まれてしまいます。

と、ここでもうひとつ、アブラハムの家族関係の物語が明らかにされます。

それは、何年か前のこと、アブラハムが娘たちに自分への思いを言葉にしてくれ、つまり「愛してる」と言ってほしいと言ったところ、末の娘だけは、そんな白々しいことは言えないと拒絶し、それがもとで勘当同然になり、今はマドリッドで暮らしているということです。

マリアはその娘にお金を借りるしかないと説得します。頑なに拒み続けるアブラハム、それでもやっと娘を訪ねたアブラハムは、言いよどみながらも謝りに来たと語り、2,000(ユーロ?ドル?)を貸してほしいと言います。

このシーン、無茶苦茶シリアスで、私はすごい気に入っているのですが、普通映画的には父娘和解のシーンになるんですが、娘はその素振りさえ見せず、アブラハムは1,000でもいいからとここでも駆け引きをするのです。

そして、次のシーンはもうパリ行の列車を待つアブラハムです。この記憶、間違っているかも知れませんが、それくらいのキレの良さで次へ進むのです。普通、映画なら、ここで父娘が愛情を確かめ合うシーンでも入れるでしょう。

この映画、物語の軸はかなり叙情的なんですが、映画のつくりはかなりストイックなのです。

そして、パリ、モンパルナス駅に到着したアブラハムは東駅に移動、ここでまたひと悶着起こします。駅のコンシェルジュに、ドイツを通らずにポーランドへ行く方法を求めます。スペイン語と(多分)ちょっとだけの英語しか話せないアブラハムと(そんなことはあり得ないけど)フランス語しか話せないコンシェルジュ、さらにポーランドやドイツの国名さえ決して口にしないアブラハムです、ほぼ喜劇的シーンです。ただ笑えはしません。

ここでも手助けしてくれる女性が現れます。ドイツ人の文化人類学者イングリッドです。ただ、アブラハムからすれば当然なんでしょうが、ドイツ人ですので口をきこうともしない態度です。しかし、イングリッドは根気よくアブラハムに対します。

これ、おそらく、今はともかく、これまでのドイツの過去に対する対し方を現しているんだろうと思います。とにかくイングリッドはアブラハムがどんなに拒絶し、罵倒(そこまではないけど)しようとも、アブラハムに寄り添おうとします。このイングリッドの態度も過剰さがなく、淡々として、心の底から当然のこととして振る舞っている様がとてもよかったです。

で、何とか妥協したアブラハムとともにドイツのどこかへ(ベルリン?)へ向かい、その列車の中で、上に書いたアブラハムの過去を語らせるのです。うまい構成ですね。

ドイツの乗換駅です。イングリッドは、絶対にドイツに足を下ろしたくないというアブラハムのために、列車からホームに(多分)自らの衣服を並べてアブラハムが降り立つ道をつくるのです。

そして、乗り換えの列車が到着した時、二人は何も言わず静かに抱擁し合います。

ポーランドへ向かう列車の中、乗り合わせたドイツ語?ポーランド語?の洪水に、アブラハムは息苦しさを感じ始め、列車内をさまよい、忌まわしき過去の妄想にとらわれ、気を失ってしまいます。

ポーランド(ワルシャワ?)の病院です。この端折り方が小気味よいと言えば小気味よく、ちょっとあっけないと言えばあっけないのですが、ベッドで目を覚ましたアブラハムの前には看護師のゴーシャがおり、何でも手助けすると言います。アブラハムは自分が元気になったらウッチへ連れて行って欲しいと言います。

そして、さすがにここは端折りすぎでしょうと言いたくなりますが、次のシーン、ゴーシャの運転する車の助手席にはアブラハム、二人はウッチへ向かっています。

アブラハムの記憶の映像の中で、足を引きずりながら向かったその家に、今、アブラハムはゴーシャに押された車椅子で向かいます。ドアをノックします。誰も出てきません。ゴーシャが周りの家を訪ねますが、わからないようです。

ここの一連のポーランド語(だと思う)、字幕がありませんでしたので、「わからないようです」としか言いようがありませんが、なぜつけないんですかね? 私はつけるべきだと思います。アブラハムには理解できているわけですから。

とにかく、その後の展開もうまいです。あきらめて家のまわりを回った時、あの時、友が匿ってくれた地下室への階段を見つけます。見て欲しいとゴーシャに頼むアブラハム、下りてゆくゴーシャ…。

どうなるのかと思いますよね。

ふっと家の窓を見つめるアブラハム、窓の奥で人の気配がしたのでしょう。ミシンが見えます。カバーが取られます。自分と同年代の男性がその前に座り、作業を始めようとします。その男性も気配を感じたのでしょう、ゆっくりと顔をあげます。その男性は眼鏡をかけ、懐かしき友の面影、二人は目と目が合います。

本当は、ここで終わっておけばとは思いますが、その友が家から出てきます。車椅子から立ち上がったアブラハム、二人は抱擁しあって、映画は終わります。

号泣です。

この映画、おそらく相当幾度も推敲(映画では何て言うの?)みたいなことを繰り返し、結果90分程度のものになったんだろうと思います。それが成功しています。これ以上過剰になったら、ミゲル・アンヘル・ソラさんの怒りを押しとどめたタイトな演技も、末娘やマリアやイングリッドやゴーシャの抑えた演技も無駄になるところでした。

その監督のセンスと脚本の優れた物語性に拍手を送りたいと思います。

カティンの森 [DVD]

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