「パレスチナ(?)へ行き、原爆を持ち帰る展開とか、幻想だかなんだか分かりませんが、すべて、こうすりゃ「怒っ」たポーズができるみたいな、自分自身は怒っていないのに、「怒り」の映画をつくろうとしている感じです。
在日=差別=怒り、あるいは、日本人=傍観者(悔恨)を前提にするのではなく、イコールそのものに迫り、少女の外へのベクトルと少年の内へのベクトルを濃密に描くことで「怒り」そのものに迫って欲しいものです。
いや、違うかもしれません。そもそも、二人とも怒る側にいるわけではなく、何もできないでいる高校生(笠井しげ)の立場にいるのかもしれません。やたら、このままでいいのか、立ち上がれ、みたいな台詞がありますが、あれは、見るものではなく、自分たちをアジっているのかもしれません。
「怒り」を失った、いや「怒り」方を失った時代の映画ということでしょうか…。