幸せの、忘れもの。

原題はスペイン語の「Sorda」で「ろう者」の意味、邦題に惑わされないように…

原題はスペイン語の「Sorda」、英題は「Deaf」、どちらも「ろう者」あるいは「聴覚障害者」の意味です。邦題に惑わされて何らかの期待をして観たり、内容を予想して観なかったりしないほうがいい映画です。私は後者になりそうなところだったのですが、こういう映画だったのかい!? と驚いたほうです。いい意味でです。

幸せの、忘れもの。 / 監督:エバ・リベルタ

ネタバレあらすじ

ろう者の妻と聴者の夫の間に子どもが生まれたことで、それまで感じなかった、しかし、心の奥底に抑え込まれていた感情が顕在化してくるという映画です。その感情は特別なものではなく、言うなれば人間がどうしても越えられない自己と他者の関係という極めて根源的な問題に根ざすものでもあります。

もちろんその壁を乗り越えようとすることも人間の本能的な行為であり、映画でもかすかにその兆しを見せて終わっています。

ろう者の聴覚感

という内容の映画なんですが、一方観ている我々(聴者の場合…)にまた違ったものを感じさせてくれる映画です。

映画終盤になりますと、音響効果として低音のノイズ的な音だけになり、聴者の会話シーンでもその音声はほぼまったく聞こえなくなります。ろう者の聴覚感を擬似的に聴者である観客に感じさせるつくりになっています。ぼわーんとして何も聞き取れない感じを想像してください。

続いてろう者の妻が補聴器をつけますと、すべての音が金属音的な耳障りな音に変わります。これもろう者が補聴器をつけたときの聴覚感の疑似体験となります。キンキン、カンカンという感じで、長時間これに耐えるのはかなり苦痛を感じます。

この疑似体験がろう者の聴覚感にどの程度近いものかはわかりませんが、少なくとも、その瞬間、ああと気づくことも多く、マジョリティである聴者の価値観でろう者に相対することの間違いには気づかされます。

コーダ あいのうた」にも突然無音になるシーンがありハッとさせられましたが、この映画「幸せの、忘れもの。Sorda, Deaf」を観て思うのは、「コーダ あいのうた」は聴者視点の映画だったんだなあということです。この映画にはろう者視点、かつその点で強い現実感を感じます。

手話という言語

それとこの映画で強く感じたのは「手話」という言語についてです。

アンヘラ(ミリアム・ガルロ)が出産後にぶつかる一番の問題は子どもとのコミュニケーションです。コミュニケーションという言葉よりも繋がりとか結びつきといった方がいいかも知れませんが、娘オナは聴者ですので視覚よりも聴覚での反応が先にきます。アンヘラが手話で伝えようとしても音や会話に反応してしまいアンヘラの手話に集中しません。

アンヘラの不安はいかばかりかと思います。自分はこの娘を育てられるか、この先この娘にどう向き合えばいいのかと、言葉ではこういう言い方しかできませんがアンヘラには絶望的な感じなんだろうと思います。

このことが夫エクトル(アルバーロ・セルバンテス)との間をギクシャクさせ、ついには修復不可能にも思える大喧嘩になります。

エクトルも聴者ですので言葉を使ってオナをあやします。アンヘラが手話であやしたり子守唄を歌ってもオナは音のする方を向いてしまいます。オナにヘッドホンをさせて必死に手話で伝えようとしますがすぐに外してしまいます。

ラストシーンではオナがアンヘラの真似をするように手を動かすワンカットがあり、オナもこうした日々を経て CODA(Children of Deaf Adults)として育っていくんだろうとは思います。

ただその日々はアンヘラにとっては絶望とかすかな希望とが交錯するつらい日々なんだろうと思います。

「手話」が登場する映画を観ますと必ず思い出す映画があります。

勧めているわけではありません。ひどい考え方の映画なんです。出演者がろう者ですべて手話の映画なんですが字幕なしなんです。日本語の字幕なしということではなく、監督が字幕をつけることを拒否しており、

ウクライナの新鋭監督ミロスラヴ・スラボシュピツキーの長篇デビュー作である本作は、台詞や音楽は一切なく、字幕も吹き替えすらも存在しない。登場人物すべてがろうあ者であり、全篇が手話のみによって構成されている。
(日本の公式サイトから。すでにリンク切れ)

と宣伝されている映画です。台詞はあるでしょ、手話は言語だよ、と思いますが、さらに、

登場人物の背景や心理的な説明を全て排し、純粋な身振り、表情、眼差しによる表現方法に、観客は想像力をフル回転させてスクリーンと向き合う、という初めての映画体験に身を委ねることになる。そしていつしか彼らの会話を理解している事に気付く。
(同上)

と、手話を身振りだと言っているのです。

話が飛び過ぎました。

ろう者俳優の現実感

アンヘルを演じているのはミリアム・ガルロさんはろう者であり俳優でありアーティストとのことです。映画の中ではやきもの工房で働いています。工房の仲間とも関係は良好です。エクトルの方は農業なのか、常にいますので会社勤めということではないようです。

エクトルは完璧な手話を使いますので聴者の友人たちとの会話では通訳をします。ろう者の友人たちとの会話でもまったく違和感のないシーンが続きます。二人の関係は自然体でお互いに充実しています。

アンヘルの両親は聴者です。アンヘルは子どもができたことを話すことに躊躇しています。ことの流れでつい話してしまいますが、このことでその理由がわかります。母親はアンヘルが子どもを持つことを望んでいないのです。おそらく孫がろう者である可能性を恐れているのでしょう。アンヘルとエクトルも考えていないわけではなく医師に相談し、先天性の場合は遺伝の可能性があると聞き、五分五分だと言われます。

出産のシーンは切迫感があり無茶苦茶ドキドキします。看護師(助産師かも…)が矢継ぎ早に指示を出しますのでエクトルの通訳も慌ただしくなり次第にアンヘルがパニック気味になっていきます。そのうちなにか異常があるような気配がし、医師が入り、エクトルが邪魔だからと移動させられ通訳できなくなります。アンヘルの精神状態が飽和状態になります。かなり演出が入っていると思いますがとにかくドキドキします。

そんなこんなで無事に生まれます。ここからは時間経過が早くなり、新生児から2歳くらいまでを6人の幼児で描いているらしいのですが、すでに書いたアンヘルの苦難、挫折、葛藤、逃避、復活が描かれていきます。

希望が見えてもそれで終わるわけではなく、おそらく今後もその繰り返しとなるのでしょう。

感想、考察:マイノリティを疎外するこちら側

マイノリティが疎外されるその構造の、疎外する側にいる自分を強く感じさせられます。

夫エクトルは献身的なんです。実はこの立ち位置にも問題があることを映画は言っているのですが、映画前半では理想的な関係ですし、お互いに対等ですし、どちらも無理をしているようには描かれていません。献身的という言葉が浮かんでくる関係ではなく自然体の対等な関係です。

そして子どもが生まれます。育児に対してアンヘルに悩みや葛藤が生まれます。赤ちゃんが泣き声や音で伝えようとすることにアンヘルは対処できません。エクトルに比重がかかることが多くなります。それにつれ友人たちとの会話でも手話での通訳がおろそかになります。

アンヘルは家の中の居場所を失い、ろう者たちとの繋がりにその場を求めていきます。エクトルがキレます。自分はこれだけやっているのに! ということになり大喧嘩です。もう少し辛辣な表現があうような言い争いです。

そして、アンヘルは言います。

また尊厳を取り戻すことから始めなければならない、と。

ミリアム・ガルロさんはエバ・リベルタ監督の実の妹さんです。

ミリアム・ガルロさんの演技も、エバ・リベルタ監督の映画づくりも素晴らしい映画でした。