破戒

近代的自我の葛藤のテーマがぼんやり、それは現代的?

島崎藤村著『破戒』の映画化です。1948年の木下恵介監督作品、1962年の市川崑監督作品に続く3度めです。監督は前田和男さん、初めて見る監督です。

破戒 / 監督:前田和男

水平社創立100周年記念

なぜ今映画化?と思いましたら、水平社創立100周年記念ということで部落解放同盟が企画を立ち上げ東映ビデオが制作したということのようです。

原作を読んでいるかどうかにはかかわらず、その概要や破戒の意味を知らずにこの映画を見る人はいないと思いますのであえて言うことでもありませんが、この映画を理解するには部落問題を知らないとなんのことかまったくわからないことになります。

それに原作の『破戒』そのものが差別的だとの批判で絶版になったり、その後、藤村自身が一部書き換えたり削除したりして再び発行されるようになったなどの経緯もあるらしく、そうした点にも配慮が感じられる映画になっています。

ですのでこの映画から原作の中心的テーマを感じることは難しいかもしれません。

市川崑版と比べてみた

とは言いつつも、私も原作の記憶はかなり曖昧ですので青空文庫で確かめ始めてはみたもののそう簡単には読みきれそうもありませんのでまずは配信で市川崑版を見てみました。

丑松は市川雷蔵さんだったんですね。製作は60年前ですので上に名前の上がっている方のうち藤村志保さん以外はみなお亡くなりになっています。今から思えばそうそうたる顔ぶれの映画です。

なかでも岸田今日子さん、すごい存在感です! 猪子蓮太郎の妻役での出演であり、今作にはその人物自体が登場しないのですが、蓮太郎が亡くなってからの2、3シーンだけにもかかわらず、なにせラスト近くですので、むしろ丑松よりも岸田今日子さんの印象を残したまま映画を見終えてしまうというくらいの存在感です。

今作のラストは、丑松(間宮祥太郎)と志保(石井杏奈)がふたりで東京へ行くように書き換えられていましたが、市川崑版は原作通り蓮太郎未亡人(原作に名前はあったのだろうか?)に付き従うような感じで東京へ向かいます。岸田今日子さんの存在感でまさしく丑松が付き従っていくという感じです。

丑松の苦悩描写は薄め

で、なぜ原作を読み直そうとしたり市川崑版を見たかですが、今作を見て、こんな軽い話だった?とやや違和感を感じたからです。

やはり市川崑版は丑松(市川雷蔵)の苦悩を追うかたちで映画がつくられています。それに比べて今作の丑松(間宮祥太郎)は、たしかに自分の出自が露見することを恐れてはいますが、苦悩の描写としてはかなり軽めです。

丑松の苦悩にはいくつかの側面があり、もちろん一義的には部落出身であることが皆に知られれば自分の存在自体が危うくなるということなんですが、それ以上に丑松を苦しめているのは、自分が教師であるにもかかわらず生徒に対して自分を偽っていることや尊敬する蓮太郎や信頼する友人の銀之助を裏切っているのではないかということであり、さらにその偽善的行為(と丑松が思っている)は父が命を賭して自分に与えた戒めによるものだからです。

原作がどうであったかは記憶がありませんが、市川崑版では、丑松の父親は自ら縁を切るようにひとり山にこもり、その後自殺しています。丑松はそうした重荷を背負っているからこそ、近代人が持つ告白すべき(正しいことをなすべき)というと自我とそれに相反する父親の戒めとの間で心が張り裂けんばかりの苦悩をするということが『破戒』の最も重要なテーマです。

市川崑版では、そうした苦悩を強調するために、たとえば丑松が蓮太郎と会う場面では、蓮太郎には丑松が自分と同じ部落出身であることをわかっていながらあたかもその告白を迫るかのような強烈な眼差しを丑松に向けさせています。

今作にはそうした視点はあまりないようです。丑松をあまり苦しめちゃいけないというバイアスがかかっているのかもしれません。

差別、偏見の描写も薄め

差別というテーマを扱った作品はどう描いても批判を受けることが多くなります。差別することを糾弾するためには差別を描かなくてはならなくなります。差別的な言葉も使わなくてはならなくなります。でも、その言葉を使い、差別の行為を描けば、現実に差別される人を傷つけることになります。

市川崑版では丑松が生徒に告白する場面で土下座して泣き崩れる様に批判があったらしく、今作ではそうしたシーンはなく、丑松が子どもたちの机に手をついて頭を垂れる演技になっています。

また、冒頭のシーンで丑松が逗留している宿屋から部落出身者が汚らわしいと追い出されますが、今作では、その人物の孫が丑松の生徒の一人であり、勉学の意欲はあるにもかかわらず部落民だから進学できないと諦めているところをその人物が援助して進学させるというように書き加えられています。市川崑版ではそもそも生徒には焦点は当てておらず、ラストにみんなで見送るくらいです。

こうした時代ものの映画の場合にその時代性をどうするかで随分出来が変わってきます。原作は明治後期の話ですし、発表年も1906年、明治39年と同時代ですので部落差別というものが広く一般の身近にあったんだろうと思います。ですので差別そのものを書かなくても世に漂う偏見を書きさえすれば差別の残酷さや非人間性が想像できてしまうということになります。

実際、描かれているのは差別そのものではなく、ほとんどがその差別を生む偏見です。

偏見は心の中に巣食うものですのでそもそも部落と聞いてもなんのことかわからなければ丑松の苦悩自体がわからなくなってしまいます。

そうした点でも現在での映画化には苦労があったんだろうと想像します。

なお、原作の丑松はテキサスへ向かうためにまずは東京へということだったと思いますが、市川崑版では蓮太郎の意思をついで活動家の道へ進むために東京へ向かい、この今作では志保と二人で東京へ向かう結末になっています。

現代的と言えば現代的なのかもしれません。