熊は、いない/ノー・ベアーズ

熊はまぼろし、恐れることはない…

ジャファル・パナヒ監督、2018年の「ある女優の不在(3 Faces)」以来です。2010年頃からイラン政府によって拘束されたり、逮捕されて有罪判決が下されて収監されたりが続いているのですが、現在はどうなっているんでしょう。

熊は、いない/ノー・ベアーズ / 監督:ジャファル・パナヒ

撮り終えた後に逮捕、収監、釈放…

この「熊は、いない」を撮り終えた後の2022年7月11日に2010年の有罪判決にもとづいて拘束され、現在、懲役6年の刑に服役しているようです。この10年あまり、イラン政府も国際世論を意識して刑の執行を思いとどまっていたということなんでしょうか。

と思い、英語版のウィキペディアを見てみましたら現在は釈放されているようです。パナヒ監督は逮捕拘束後の2023年2月1日からハンガーストライキに入り、その48時間後に釈放されたとあります。さらにそのソース記事を読みますと、この逮捕に関してはすでに逮捕された年の10月にイラン最高裁判所が2010年の刑は10年の時効が成立していると宣言しており、パナヒ監督の弁護士は本来なら3ヶ月前に釈放されるべきだったと語ったとあります。それでも7ヶ月間は収監されていたということです。

とにかく釈放されていてよかったのですが、それにしてもすごい監督です。2010年には上の有罪判決とともにその後20年間の映画制作と海外渡航が禁止されていたわけですが、何とその翌年には「これは映画でない」を発表し、2015年には「人生タクシー」でベルリン映画祭金熊賞を受賞しています。

重層的メタフィクション

で、この「熊は、いない」ですが、かなり複雑な映画です。

パナヒ監督がトルコとの国境に近い村からリモートで指示を出し、助監督やスタッフがトルコ側の国境近くの町でドキュメンタリーを撮っているという設定から始まります。

トルコ側のドキュメンタリーの設定は、イランから国境を越えてトルコに渡った男女が偽造パスポートでパリに渡ろうとしているという物語で、これがさほどドキュメンタリーに見えるように撮られていないだけに、逆にこれは再現ドラマではないかという気がしてきます。撮影自体も国境の町ではなくイスタンブールで撮られているそうです。

女性は俳優だと思いますが、男性は俳優じゃないような気がします。深読みすれば、この男女の話は現実にあったことで、実際に女性は自殺しているのではないかという気さえしてきます。もちろんこれは想像ですが、そうした虚実入り混じった物語と思わせます。

男女が偽造パスポートを得てパリへ旅立とうとするシーン、いきなり女性が素に戻って(もちろん演技…)リモートで見ているパナヒ監督に向かって挑戦的に言います。カメラ目線ですので、映画を見ている我々に向けてでもあります。

あなたは私たちの現実を撮ると言い、私たちふたりが希望を持ってパリへ旅立つストーリーを描こうとしているが、彼(男の方…)のパスポートは偽物(そもそもパスポートでもない…)でしかなく、このまま私はひとりでパリへ渡ったらどうやって生きていくのだと訴え、このドキュメンタリーはつくりものだと明かします。そして、その後、その女性は湖へ入水自殺します。

いわゆるメタフィクションということじゃないかと思います。また、その手法は他のパートでも使われており、この映画、全体を通して何が本当かよくわからないように出来ています。

さまよう映画の中のパナヒ監督、しかし…

パナヒ監督演じるパナヒ監督のパートは始終不穏な空気が流れています。

その村には、女性が生まれた時には将来の夫となる男性を決めた上でへその緒を切るという風習があるらしく、その男女が成人となった今、女性には別に相思相愛の男性がおり、いいなずけともいうべき男性との間でトラブルが発生しています。

そのトラブルに映画の中のパナヒ監督が巻き込まれるという物語です。

こちらのパートはトルコパートに比べますとかなり現実感があります。フィクションだよと見せながら、ロケーションや村人たちの存在感がかなり現実的です。

パナヒ監督がその相思相愛の男女の写真を撮ったのではないかと村長までもが見せてくれとやってきます。仮にその写真があったからといって何がどうなるのかということが不可解であるがゆえに、昔からの風習に生きる辺境の村らしく感じられ、妙に現実感が増すということです。そうしたことが始終漂う不穏な空気につながっています。

それに対して飄々と(感じられる…)振る舞う映画の中のパナヒ監督にはほとんど現実感はありません。これが演技なのか地なのかはわかりませんが、地に足がついていないふわふわ感があり、現実の戦うパナヒ監督とは対極にあるような印象です。

ある夜、助監督がパナヒ監督のもとにやってきて、現場に監督がいないことでスタッフや出演者に不満があると言い、パナヒ監督をトルコへの越境に誘うかのように国境まで誘導します。そこは密輸ルートでもあるらしく頻繁に車が猛スピードで走っていきます。丘に登りますとその向こうには町の夜景が見えます。助監督はあれが今撮影中の町だと言い、灯のない暗闇は湖だとも言います。トルコパートの女性の自殺はこの後ですので伏線ということでもあるのでしょう。

結局、映画の中のパナヒ監督は助監督の誘いには乗らずに村へ帰っていきます。

熊はいない、恐れるな…

タイトルとなっている「熊は、いない No Bears」の熊がなにを指しているのかははっきりしませんが、おそらくは現実のパナヒ監督や自殺した女性や射殺された村の男女たちに抑圧的にはたらく国家を含めた組織的権力であり、風習という社会的権力総体を指しているのだと思います。

その熊はいない、まぼろしだということでしょう。

結局、村の男女のトラブルは現実的な男同士の争いに発展し、その後愛し合う男女がトルコへの越境を試みたがために警備隊に射殺されることになります。

また、映画の中のパナヒ監督は密輸ルートの国境付近にまで行ったことが警備隊に知られたとのことで村を去ることになり、その途中、男女ふたりが射殺された現場に遭遇します。車から降りようとするものの村人に押し止められ、一旦外したシートベルトを締めることなく走らせたがために警告音が鳴り響くまま車を走らせます。

そして、映画の中のパナヒ監督は、何を思ったか車を停車させ、ハンドブレーキをギュッと引くのです。

「熊は、いない」ことを示すためにパナヒ監督の抵抗は止むことはないと思われます。