ソウルに帰る

カンボジア系フランス人の監督が韓国系フランス人のアイデンティティのゆらぎを追う…

フランス人の養女としてフランスで育った韓国系フランス人の女性が韓国で実の両親を探すという映画です。ただ、それを撮ったのがカンボジア系フランス人のダビ・シュー監督という、ちょっと変わった映画です。カンボジアではなく韓国というのはどういう経緯なんでしょう。

ソウルに帰る / 監督:ダヴィ・シュー

シュー監督の友人の実話に基づく…

IMDbに情報がありました。それによれば、この映画はダヴィ・シュー監督の友人 Laure Badufle さんという方の実体験に基づいているそうです。

Badufle さんは韓国で生まれ、1年後に養子縁組でフランスに渡っています。23歳の時に2年間韓国に滞在したとありますが、その目的が実の両親探しであったかどうかや両親に会うことが出来たかどうかは書かれていません。そして、その数年後、シュー監督も同行して再び韓国にわたった際には父親と祖母に会っており、シュー監督も立ち会っているそうです。その雰囲気はかなり険悪だったらしく、シュー監督はその印象を「the translator struggling to convey Badufle’s anger into polite Korean(通訳が Badufle さんの怒りを丁寧な韓国語に訳すことに苦労していた)」と語っているとのことです。

うまい入りとパク・ジミンさんの実在感…

映画は韓国系フランス人のフレディ(パク・ジミン)がソウルのゲストハウスのスタッフ(オーナーかも…)のテナ(グカ・ハン)に話しかけるシーンから始まります。

この映画、説明的なシーンや台詞がありませんので、どういうことだろうなどと考えながら見ていくのが楽しい映画です。

テナがヘッドフォンで音楽を聴いています。何を聴いているの?とフランス語で声が入ります。フレディです。テナは、あ、と気づいてヘッドフォンを外し、韓国の歌謡曲と答え、聴かせてというフレディにヘッドフォンを渡します。

というシーンがアップの映像の切り返しで始まります。シャレた始まり方です。よくよく考えれば、いきなりフランス語で声を掛けるかということも、それに対して韓国の歌謡曲(字幕なので原語がどうだかはわからないが…)と答えるのも作り込まれた会話ではありますが、映画に引き込むにはうまい始め方です。

その後、テナのボーイフレンド(夫かも…)も加わった居酒屋のシーンになりますが、冒頭のフレディのフレンドリーさで違和感がありません。

そしてしばらくは韓国とフランスの価値観、あるいは生活感の違いが描かれます。韓国ではお酒を自分で注いちゃ相手に失礼になるというテナたちに対してフレディがわざと自分で注いだり、フレディが他の客たちに一緒に飲もうと誘い合コン状態になったりするといった具合です。また、翌朝、部屋で目覚めたフレディが隣に寝ている男性に、私たちセックスした? もう一度する? などとセックスと愛情は別物というところも見せています。

この男性とのことは、後にその男性が愛の告白をしますと、意味がわからないといった風に聞き流し、フランス語ですぐ忘れるわよとやや嘲笑ぎみに言い放つシーンがあります。

やや過剰とも思えるこうしたシーンや、居酒屋で韓国人の男性にフレディが典型的な韓国人の顔立ちをしていると言わせているのは、カンボジア系フランス人であるシュー監督自身にもある(かも知れない…)アイデンディティのゆらぎを描こうとしているのでしょう。フランス、韓国、どちらにいてもよそ者のように感じる苛立ちのようなものが表現されているのだと思います。

フレディを演じているパク・ジミンさん自身は養子ということではなく、9歳の時に家族で移住したとあります。また、俳優ではなくビジュアルアーティストとのことです。パクさんはこの映画に出演するにあたって、フレディの人物造形を話し合いでつくっていくことを条件にしたそうです。

それがいい結果を生み出しています。フレディの実在感がすごいです。動かされているという感じがまったくなく、パク・ジミンさんがフレディそのものです。映画の中でパクさんがフレディを生きているということです。

父親との再会と韓国の海外養子縁組…

映画は、そもそものフレディの韓国滞在を両親探しのためとは描いておらず、日本行きの飛行機が台風のためにキャンセルされたので韓国行きに変えたとしています。それに、フレディが養子としてフランスに渡ったフランス人であることは居酒屋のシーンで明らかにされるわけですが、その際にも両親を探すつもりはないと言い、テナの方から養子縁組斡旋の組織ハモンドがあることを教わるというつくりになっています。

フレディの韓国行きをストレートに実の親探しの旅とはせずに偶然ともみえる設定にしているのは、フレディの複雑な心情の表現とも取れますし、実際、最初はそうであっても次第にフレディの心の中は実の両親、特に母親のことで占められていきます。

ハモンドから両親それぞれに連絡しますと、父親からはすぐに会いたいとの返事が来ます。フレディはテナとともにソウルから直線距離で180kmの群山に向かいます。

感動的な再会シーンなどといったつくりはされていません。こういうところがとてもいいです。それにこのシーンでは父親の存在感がとても薄く、祖母が中心になっています。祖母がしきりに謝罪しています。ただ、あの頃は仕方なかったとも言っています。

韓国は海外への養子縁組が多い国で、韓国保健部の統計では1955年から2022年までに17万人近い乳幼児が海外へ送られています。赤ちゃん輸出国という言われ方もしていたようです。この映画の時代設定は2014年ですのでフレディが養子となったのは1989年です。統計では1980年代がピークとなっています。当初は貧困が理由の多くをしめたのでしょうが、次第に血縁重視の社会や家父長制(女児が養子に出されやすい…)などが理由となったようです。映画はそうしたことには触れていません。フレディの場合は貧困が理由ということでもなさそうですので祖母の話は言い訳でしょう。

父親はフレディの母親とは離婚し、現在は再婚した妻とふたりの娘と暮らしています。謝罪のつもりなのかフレディにここで暮らさないかと言い、その後も頻繁にショートメッセージを送ったり電話をしてきます。フレディはそんな父親を鬱陶しく思い無視します。父親は、酔っ払った勢いなのか、返信も返さず電話にも出ないフレディに業を煮やしたのか、ゲストハウスにまでやってきてちょっとしたトラブルになるシーンもあります。

2年後、5年後、母との再会…

中盤はややもたもたします。この映画は、実の両親探しだけの映画ではなく、アイデンディティのゆらぎを抱えた個人を描くことが主題だと思いますが、両親探し以外の描写にしっかりした軸がないことが原因じゃないかと思います。

セックスと愛情は別ものだと一度寝た男性を嘲笑するような態度やクラブの男性と寝ることを前提に誘ったりすることもそうですが、その後だったか、テナにキスしようとし、テナから「悲しい人だね」と言われる、そうしたフレディの苛立ちの行動がひとつにうまく収斂していきません。

時代が2年後に変わるシーンがその典型です。2年後のソウルです。

この時のフレディの状況がよくわかりませんが、ソウルで暮らしているようです。マッチングアプリでフランス人の男性と会います。男性は武器を売りに来ていると言い、フレディに対して、君は前しか見ないからこの業界に向いているとスカウトするようなことを言います。次のシーンへの振りです。

また、その後がさらによくわかりません。その日はフレディの誕生日らしく、友人がサプライズでパーティーを開いてくれていることに最初は拒否感を示しますが、それでも結局弾けて踊ったりし、女性の友人(フレディと同じように養子となった女性らしい…)には、母親にはハモンドから何度も連絡しているが母親からは会う気がないと連絡してきたと話します。これも次のシーンへの前振りでしょう。

さらに5年後です。フレディはマッチングアプリで出会った男のもとで武器商人として働いています。出張を兼ねてボーイフレンドとともに韓国にやって来たということでしょう。父親と会い、食事をします。父親がピアノを始めたと言い、自作の曲を弾きます。フレディは感動しているようです(多分…)。ボーイフレンドが独学にしてはいい曲だと言います。

ハモンドから母親が会うと言っているとの連絡が入ります。その日、フレディが職員にこれまで拒否していた母親がなぜ会うと言ってきたのかと尋ねますと、誰かが規則に違反してまで掛け合ったのだろうと言います。

母親との再会シーン、椅子に座って待つフレディの横顔をとらえたカットに母親が入ってきます。その姿にはピントがあっておらずぼんやりしています。そのまま母親はフレディーに近づきゆっくりとフレディを抱きしめます。フレディの目からは涙がこぼれています。そのまま母親の姿は明らかにはなりません。

これはうまいシーンでした。

そして、さらに1年後、バックパッカーのような出で立ちのフレディがホテルにチェックインします。フレディは先にトイレを借りたいと言い、トイレに入り、母親から渡されていたメールアドレスに、すぐにメールしなくてごめんなさい、しあわせに暮らしているとメールします。しかし、すぐに User unknown のメールが返ってきます。

ロビーに戻ったフレディは、置かれてあったピアノの前に物憂げに座り、ピアノを弾き始めます。ピアノは美しくも悲しげなメロディーを奏でています。

ダヴィ・シュー監督のセンスの良さは感じるが…

いろいろなところでダヴィ・シュー監督のセンスの良さを感じますが、全体としてはぎこちなさも目立ちます。

パク・ジミンさんの実在感はすごいのですが、やはりそれだけでは10年近くにわたる人物の変化は表現しきれません。

パク・ジミンさんのよさで迫るのであればもっとコンパクトに、フレディという人物の長い期間の変化を描くのであれば優れた俳優を使って作り込むべき物語のように感じます。

それにしても、ちょっと変わった感じのおもしろい映画でした。