アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台

万雷の拍手をどうみるか、感動?疑問?気持ち悪い?

2020年のカンヌ映画祭のオフィシャルセレクションとして上映された映画です。この年は新型コロナウイルス蔓延のために映画祭が中止となり、全56作品がオフィシャルセレクションとして「カンヌレーベル」のくくりで各地の映画祭で上映されています。この映画はコメディ部門の一作としてアングレーム映画祭で上映されています。

アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台 / 監督:エマニュエル・クールコル

実話にもとづく話

刑務所の受刑者たちが矯正プログラムとしてベケットの「ゴドーを待ちながら」を上演し、それが一般社会でも受け入れられるようになり、いよいよ大舞台での上演となり、さてどうなるかという話です。ベースとなる実話があるそうです。

スウェーデンの俳優ヤン・ジョンソン(現在74歳)さんの実体験とありますのでウィキペディアを見てみたのですが、概略しか記載されておらず、ほぼこの映画の内容どおりでした。1985年の話です。

さらに2005年には「Les prisonniers de Beckett(ベケットの囚人たち)」というドキュメンタリー映画があります。どういう経緯かはわかりませんが、この実話に関してのヤン・ジョンソンさんを撮った映画なんでしょう。エンドロールにベケット本人の写真やゴドーの舞台写真が使われていたのはこの映画のものかもしれません。

上のIMDbにそのベケットの写真がありますが、その隣がヤン・ジョンソンさんです。ベケットからヤン・ジョンソンさんに会いたいと連絡があったような記載が下のリンク先の記事にあります。ベケットが亡くなったのは1989年ですのでその数年間のどこかでしょう。

上のリンク先には映画でも使われていたポーズを決めた4人の男たちの写真があります。演じた受刑者たちなんでしょうか。

ラスト30分をどうみるか…

すっとはタイトルも浮かびませんが、刑務所や更生施設の矯正プログラムを扱った映画というのはありそうな気がします。この映画では演劇ですが、音楽というのもありそうです。

題材は何であれ想像できる物語は、紆余曲折はあるものの受刑者たちが最後には生きることの充実感を感じたり、将来をイメージできるようになるという、ありきたりではありますが感動ものがすぐに頭に浮かびます。

で、この映画も最後の30分まではそのように進みます。

エチエンヌ(カド・メラッド)はあまり売れていない俳優です。友人の劇場責任者(だと思う)から刑務所の受刑者の矯正プログラムの講師の話を持ちかけられ受けることにします。プログラムは以前から続いているものであり、受刑者たちは冗談でエチエンヌをからかったりはするものの順調に進みます。ただ、題材がうさぎとかめの話といった寓話ものでありエチエンヌには物足りません。

エチエンヌは、受刑者たちの日常が「待つ」ことで成り立っていることから「ゴドーを待ちながら」を演じさせることを思いつきます。友人に6ヶ月先の劇場を強引に抑えさせ、刑務所の所長にはこれまた強引に受刑者たちの外出許可を認めさせます。

映画でみる限りの比較で言えば、日本の刑務所に比べれば自由度はかなり高いです。以前、ヴェンダースさんが総監督をつとめたドキュメンタリー「もしも建物が話せたら」でノルウェイの刑務所を見たのですが、建物の美しさもそうですが、その自由度にびっくりしました。現実がどうかまではわかりませんのでこの印象が正しいとも言えませんが人権に対する考え方の違いが根底にあるのかもしれません。

ただ、この映画、そうした刑務所という特殊な環境にこだわった映画ではありません。鉄格子があり、常に刑務官がいるわけですが、単純な背景として描かれているだけです。映画の焦点もゴドーを演じる受刑者たちに当たっているようにみえますが、結局のところそうではなくエチエンヌを撮った映画です。エチエンヌが主張しまくります。映画ですからその強引さも悪くはみえませんが、あれが現実ならまわりはたまったものじゃないでしょう。

実際、この映画は受刑者たちの犯罪に関しては何も触れていません。本人の意志に反して自由を奪われ、家族にも会えない存在として描かれています。一度だけ、エチエンヌの過度な要求に対して、所長が被害者の気持ちも考えなくてはいけないと言っていましたがそれだけです。

受刑者たちそれぞれの背景を描く視点もありません。たとえば、当初エストラゴンを演じる予定であった受刑者が刑務所のボス的存在であるカメルに取って代わられます。ワンシーン、エチエンヌがその受刑者になぜだ?と声をかけるシーンがあるだけでそれだけです。あの結果が生まれるその経緯にはおそらく刑務所の実態が隠されているんだろうと思います。

という視点がないことを批判しているわけではありません。

この映画は、受刑者たちが自分をゴドーに重ね合わせて何かを感じ取り変わっていくことを描いているわけではなく、エチエンヌ(つまりはヤン・ジョンソン)が受刑者たちの逃亡を逆手にとって自らの社会的認知度を一段引き上げたという映画です。

気持ち悪い万雷の拍手

「ゴドーを待ちながら」上演に向けての6ヶ月間の稽古は特に大きなトラブルもなく進み、上演のその日には、カメルが息子が見に来ないからと駄々をこねて上演危うしとなるもののこれは映画ですからそれも無事に切り抜けられて大成功に終わります。そして、その評判を聞きつけたあちこちの劇場からオファーが入り、全国ツアーとなり、ついにパリ オデオン座からも声がかかります。

そしてその日、開演10分前、受刑者たちは逃亡します。

謝罪のために舞台に立つエチエンヌ、俳優としては屈辱的でしょう。しかし、エチエンヌはその屈辱を一気に自らの栄光へと転換させます。

映画ではあまりうまく表現されているとは思いませんが、エチエンヌは逃亡した受刑者たちを、本来なら二重の意味での犯罪者であるにもかかわらず、ゴドーの力を借りながら自由への希求者として観客の前に提示します。そして万雷の拍手を浴びます。エチエンヌは即興的に一人芝居を演じきったということです。

映画では長い一人芝居の台詞の3、4パートをクロスフェードで見せる手法を使っていましたがあれはダメでしょう。あのシーンはどれだけ長くなってもエチエンヌの圧倒的な舞台そのもので見せなきゃこの映画の意味がないと思います。

それにしても気持ち悪いエンディングです。あの万雷の拍手、ちょっと引いて考えれば、これ?拍手するところ?と疑問を感じていいシーンです。まあ、映画はしらーとした空気を残したまま終わっていましたのでよかったのかもしれません。

実話の方も6人中5人が逃亡したとあります。映画では逃亡した受刑者たちが自由を味わっているシーンを挿入し、アンコールに応えるエチエンヌがカメルから掛かってきた電話に会場の割れんばかりの拍手を聞かせていました。さらに打ち上げでは、それまでエチエンヌを身勝手だと責めていた娘に感動したと言わせ、刑務所の所長も何事もなかったようにエチエンヌとお互いに祝福しあっていました。

大丈夫なの、所長? と思いますが(笑)、そういう映画ということです。