今日からぼくが村の映画館

「友だちのうちはどこ?」「ニュー・シネマ・パラダイス」のシーンが浮かんでくる…

ペルー映画です。ペルー映画で観ているのはベルリンで金熊賞受賞の「悲しみのミルク」と「名もなき歌」くらいです。

今日からぼくが村の映画館 / 監督:セサル・ガリンド

映画愛と時代の変遷への葛藤

アンデスの山間の村の話です。村の少年シストゥが映画というものに初めて接して魅了され、村人たちにもその感動を伝えようとします。でも村人たちは言葉がわからないといって興味を持ちません。シストゥは自分が観てきた映画の面白さを皆の前で演じ語り村人たちを喜ばせます。

邦題の意味合いはそういうことなんですが、原題の「Willaq Pirqa, el cine de mi pueblo」の後半の「el cine de mi pueblo」はスペイン語で「わたしの町の映画館」であり、前半の「Willaq Pirqa」はペルーの公用語ケチュア語で「情報の壁」という意味らしく、それはつまり、壁に投影される映画が村の外から新しいものを運んでくるということを意味しており、その使者がシストゥであり、ラストシーンでは成長したシストゥが映画監督となりケチュア語の映画を村人たちに見せることになります。

セサル・ガリンド監督の映画愛と時代が変わっていくことへの葛藤のようなものが基本的なテーマなんだろうと思います。セサル・ガリンド監督の実体験みたいなものがあるのかもしれません(想像です…)。少年シストゥの時代は1970年代とのことです。監督は1948年生まれですからちょっと違いますね。

シストゥはじめ多くの出演者は非俳優であり、おそらく台詞も棒読みに近いのではないかと思います。ですので今我々が観る一般的な映画のようにはいきませんが、それでも楽しく観られる映画になっています。素朴さへの郷愁を感じさせます。

ペルーといいますと、多くの日本人にはマチュ・ピチュやクスコ、フォークロア、音楽でいえばコンドルは飛んでいくといったものが浮かぶのではないかと思います(わからないけど…)。そういった感情を刺激する映画ということです。

ネタバレあらすじ

シストゥは両親と弟と山間の村で暮らしています。今日は学校へ行く日です。母親が子どもたちを起こし、朝食を食べさせ、シストゥを送り出します。父親はシストゥに途中で石を積むという儀式的なこと(よくわからない…)とママ・シモナ(なにか特別な存在のような人…)に何か(忘れた…)を届けるように言います。

シストゥが学校へ行くことについては母親は賛成していますが、父親はシストゥがいろいろ学ぶと村のことを忘れると言ってよく思っていません。シストゥには姉がいるらしく、両親はその娘が戻ってこないと心配し嘆いています。

説明されることはありませんが、アンデスの山間にも時代の変遷が押し寄せていることが意識されているのでしょう。娘はリマにメイドとして働きにいっているらしく、映画のラストに村に帰ってきて家族で抱擁しあっていました。娘は村人たちの民族衣装とは違いジーンズという服装です。

シストゥは風が運んできた新聞の切れ端を手にします。そこにはミス・ペルーの記事や映画「風と共に去りぬ」の広告が掲載されています。それが何かわからないシストゥは先生に尋ねます。先生はそれは映画というものであり、壁に映された人や動物が動き、知らない新しい世界を見せてくれるものだと教えてくれます。

その日からシストゥの頭からは映画というものが離れません。父親に連れられて町へ行った際にひとりで観たり、その後子どもたちを連れて観に行ったりします。映画はブルース・リーとかドラキュラです。

野原で村民会議がおこなわれます。直接民主主義ですね。議題は子どもたちが黙って映画を観に行ったことの是非(だっと思う…)です。大人たちが探し回るというちょっとした事件になっていました。結局映画ってなんだということになり(だったと思う…)、村人全員で観に行くことになります。ところが言葉がケチュア語ではないために村人たちはわからないと言って帰ってしまいます。

再び野原での村民会議です。伝統と新しいものの葛藤の議論は結構喧々囂々のやり取りがされていました。結局、シストゥが毎週町へ映画を観に行き、それを村人たちの前で演じながら語ることに決まります。

シストゥと映写技師との交流などもあり、シストゥが村人たちの前でチャップリン、アラジンの魔法のランプ、キングコングなど2、3の映画を演じます。

しかし、ある日のこと、シストゥが町に行きますとすでに移動映画館は次の町へ旅立ってしまっています。村人たちの前で演じなくてはいけないシストゥは困ってしまいます。シストゥはケチュア語の伝承(多分…)を語り始めますが村人たちには不評です。その時、ママ・シモナが聞こうと皆をたしなめます。

ママ・シモナが亡くなり、葬儀が行われます。そして、シストゥ家族が歩いていますとその先に姉が帰ってくる姿が見えます。両親もシストゥも駆け寄り抱擁しあっています。

カメラがズームアウトしていきますとシストゥたち家族の姿は大きなスクリーンに映し出されたケチュア語の映画であり、拍手喝采の村人たちの中には友人から祝福を受ける大人になったシストゥの姿があります。

感想:どうしても郷愁と観てしまう

シストゥが高原や森の中を走っていく様子は、自然環境は違うにしてもキアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ?」を思い出させますし、映写技師との交流を見ていますとジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」のシーンが浮かんできます。

どちらの映画も郷愁という感情とつながっています。

この「今日からぼくが村の映画館」もペルーという国の持つイメージもあり、同じような感情を呼び起こさせます。

アンデスの映像も美しいです。空気が違うんでしょう。青い空に浮かぶ白い雲のコントラストがまるで違います。

仕方ないことではありますが、セサル・ガリンド監督の思いとはやや違った見方になってしまう映画ではあります。ケチュア語の映画であることに大きな意味があるのだと思います。