Winny

事件そのものの問題点に迫ることなく弁護側の主張に基づく映画

Winny? と、すぐにはあのファイル共有ソフトには結びつかず、逆に何だろうと目を引き、さらに監督松本優作の名に記憶があり、サイト内を検索してみましたら「ぜんぶ、ボクのせい」の監督でした。実は、この「ぜんぶ、ボクのせい」という映画、リンク先のレビューに「日本映画界の失われた30年」とまでかなり辛辣な批判をしていますので映画自体はよく覚えています。

Winny / 監督:松本優作

金子勇は夢見る大人?

その「ぜんぶ、ボクのせい」は松本監督の商業デビュー作で公開は昨年8月でした。そして半年後にこの「Winny」公開ということになります。たまたま公開が重なったのか、期待されている監督ということなのか、出演者もすごいです。前作の出演者が、オダギリジョー、仲野太賀、松本まりか、若葉竜也、片岡礼子で、この「Winny」が東出昌大、三浦貴大、吹越満、吉岡秀隆です。やはり何かあるんですね。

で、この映画ですが、松本監督は1992年生まれですから、Winny の開発者金子勇氏が逮捕された2004年当時は12歳です。Winny や逮捕にいたる当時を知っているんでしょうか。仮に知っているとしても、映画を見る限り本人からの発想や企画ではないと思われます。となれば、オファーということになり、やはり期待されている監督ということになるんでしょうか。

何にこだわっているかといいますと、映画からは、松本監督が Winny にも、金子勇氏に対しても強い興味を持っているようには感じられないからです。要は、映画に力が感じられないということです。

この映画は基本、法廷ものです。Winny というソフトの有効性や先進性を語ろうとしているわけではなく、そもそも Winny が何であるかも何も語っていません。じゃあ金子勇氏がどんな人だったかを描こうとしているかといいますと、ないとは言いませんが、少なくとも金子勇氏を知るために取材を重ねて人物像を作り上げたようには見えません。

この映画からみえてくる金子勇氏の人物像は、プログラマーとしては優秀だが社会のことには疎い夢見るような人物です。金子勇氏は、空を見て宇宙をどうこうとか、世の中をよくしたかったなどと語るだけです。シーンとしてもキーボードを叩くシーンがあるくらいで、どんな生活をし、どんな友人がいて、どんな日常を過ごしていたのかまったくわかりません。

早い話、夢見る大人です。東出昌大さんもそのように演じています。

これはどう考えても実在した人物の姿ではありません。誰かにはこう見えていたという金子勇氏の姿です。

主役は金子勇ではなく壇俊光

回りくどくなりましたが、その誰かとは弁護士の壇俊光氏しかいません。ですので、この映画は、金子勇氏を夢見る大人として見ていた、あるいはそのように金子勇氏を描くことで裁判をたたかった壇俊光氏の物語ということです。

おそらく、この映画のベースとなっているのは、壇俊光の著作『Winny 天才プログラマー金子勇との7年半』でしょう。読んでいませんし、原作とクレジットされているわけではありませんのであくまでも想像ですが、映画は弁護活動の経緯や法廷シーンがほとんどですので壇俊光氏を取材するしか方法はないでしょう。

なお、クレジットには「原案:渡辺淳基」とあり、また「朝日新聞 2020年3月8日記事」ともあります。この記事も読んでいませんが、日時から想像するに特集記事じゃないかと思われます。

映画は自分の立ち位置に無自覚でいいのか?

なかなか映画の話に入らず、その周辺事情ばかり書いています(笑)が、なぜかと言いますと、この映画は、全面的に Winny事件(著作権法違反幇助被告事件)の弁護側の主張に沿って描かれています。もちろん、そのこと自体に問題はないです。映画はつくり手の思うようにつくればいいですし、見る側はそれを自由に評価すればいいだけです。

気になるのは、脚本を書き監督をした松本優作さんは、Winny事件に関して自らの取材や調査にもとづいて本当にこの映画の結論に達したかということです。そうはみえないということです。

この映画には、法廷ものとして何が真実なのかを追い求めるといったつくり方はされておらず、金子勇氏の逮捕は検察、ひいては国家権力の恣意的な行為であるとの弁護側の主張が一貫して貫かれています。

そしてもうひとつ、いつこれが金子裁判という本筋に結びつくのだろうと期待させながら進む愛媛県警の裏金問題が並行して描かれていきます。しかし、これが最後まで関連があるかのように描かれながら金子裁判に結びつくことはありません。

つまり、この映画は金子勇氏逮捕の裏には警察権力が自らの不祥事を隠蔽しようとして逮捕に踏み切った(かのように…)とみせているわけです。直接的には愛媛県警の裏金を裏付ける内部資料が Winny によって流出したことを描いているだけですが、同時に弁護士たちの会話として、金子勇逮捕の理由がわからない、警察、検察になにか意図があるはずだと見せているわけですから、暗に(でもなく陽に…)権力の隠蔽体質がこの金子勇逮捕の本質であると語っていることになります。

松本優作監督が本当にそうした結論に達したのであれば、少なくともその思考の経緯が映画から感じられるはずですが、それがありません。与えられた題材をうまく映画にしただけじゃないかということです。

こうした社会性の強い映画をつくる場合は、やはり自らの取材や調査をもとに自らの立ち位置を明確にした上で制作するべきだと思います。

考えてみれば、そもそもの検察の起訴内容もはっきりとは描いていません。この映画にはそうした事件に対する疑問を追求しようとの視点がないということです。

いずれにしても、壇俊光氏の本や原案となっている朝日新聞の記事を読んでみようとは思います。