志乃ちゃんは自分の名前が言えない

過剰さがなくシンプル、蒔田彩珠がよく行間(画間)を埋めていた

夏休みということもあるのか、なかなか見たいと思える映画がありません。

ということで日本の青春もの、原作があり、押見修造さんという方のコミックだそうです。監督は、「本作で満を持しての長編商業映画デビューを果たす気鋭」と紹介されている湯浅弘章さん。若いのかと思ってウィキペディアを見てみれば、1978年生まれとありますから40歳くらいですね。それに、劇場公開作品はありませんが、いろいろ活躍されているようです。

公式サイト / 監督:湯浅弘章

ベタな話かと思っていましたが、奇を衒うことなくシンプルで過剰なところがなく、好感が持てます。そもそも青春ものに奇を衒う必要などないのですが、やはり初の劇場公開作となれば気負いも生まれそうですが、そうしたものはなさそうです。

高校に入学した少女二人の交流が軸です。後半には少年一人もからんできます。

志乃(南沙良)が、初の登校なのでしょう、 「私は大島志乃です」と自己紹介の練習をしています。そして、教室、志乃に順番が回ってきます。でも、志乃は「わ、わ、わ…」と吃音でうまくいきません。なんとか発した言葉は「シノ・オオシマです」と苗字と名前が逆になってしまいます。

それを受けて、お調子者(を演じている)の強(萩原利久)が、「ガイジンか?」とからかい、教室中が笑いに包まれてしまいます。

加代(蒔田彩珠)という、皆に同調しようとせず、いつもひとり物憂げな生徒がいます。

志乃は、担任教師に緊張をほぐせば大丈夫だから友達を作りなさいと言われ、ちょっとしたきっかけがあり、加代に話しかけようとします。しかし、吃音で言葉が出てきません。加代は、「話せないならこれに書きな、面白いこと書いたらあげるから」とメモ帳とペンをくれます。

志乃は、「おちんちん」と書いて加代に見せます。

こうしたシーンで、この監督、何もしないんです。原作がそうなのかもしれませんが、なかなかできないことで、加代に笑わせることはもとより、あれこれ何かやろうとするのが普通かと思いますが、加代にじっと見させるだけで言葉を交わさせもせず、続いて、加代に「うちに来る?」と言わせるのです。

こういうセンスはいいですね。原作でしょうか? シナリオでしょうか?

加代の家は古めの団地で、台所のテーブルの上にドーナッツが置いてあり、家族構成はわかりませんが皆働きに出ているのでしょう。

志乃の家は一戸建てで母親が主婦の設定です。

これらの設定について何も語られるわけではありませんが、意識して見せています。

で、加代の部屋にはギターがあり、ミュージシャンを目指していると言います。志乃が聞かせてと言いますと、加代はしばらく渋っていますが、「笑ったら殺す」と言いつつ「翼をください」を歌い始めます。

加代のギターはとてもうまいとは言えず、歌も音程はずしまくりの音痴です。志乃がうつむいて笑いをこらえています。

「笑ったら殺す」の前振りが効いていますのでトラブルにはなりません。加代が志乃に「歌ってみ」と言いますと、無理無理と言いながらも、伴奏を聞くうちに志乃の口から言葉がこぼれてきます。

志乃の澄んだ声が響きます。

加代はふたりでバンドをやろう、「しのかよ」で秋の文化祭に出ようと誘います。

夏休み、「しのかよ」の特訓が始まります。人前で歌った経験がないので路上ライブに挑戦です。

ここで歌われているのは、赤い鳥「翼をください」、加藤和彦と北山修「あの素晴しい愛をもう一度」、THEE MICHELL GUN ELEPHANT「世界の終わり」、THE BLUE HEARTS「青空」です。

「ミッシェル・ガン・エレファント」ってバンドも知らなかったのですが、この「世界の終わり」いいですね。もちろん「しのかよ」はアコギ一本ですから全然違いますが。


世界の終わり / THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

で、路上ライブでは志乃の透明感のある声にひかれるのか立ち止まる人も出始め、このままうまくいくのかと思いきや、ある日、強が通りがかり、「お前ら、何やっての!?」と声をかけますと、志乃に自己紹介の時の思いがわーと広がったのでしょう、とたんに声が出なくなり、逃げ出してしまいます。

この強ですが、実は、お調子者を演じているわけは、中学生の時にいじめられていたらしく、それで皆の歓心を買おうとしてお調子者キャラを演じているということです。

そんなわけで、後日、強は加代に、自分も音楽が好きで楽器もできるから仲間に入れてほしいと訴えます。加代が志乃に尋ねますと、志乃は絞り出すように「か、か、かよちゃんがよければ」と答えます。

ところが、いざ三人で練習となると志乃は声が出せず、やはり逃げ出してしまいます。

ここからほぼラストまで、印象としては1/3くらいあったかと思いますが、「しのかよ」は元には戻りません。

私はここが妙に引っかかり、この後の長い志乃の拒絶の原因は一体何なんだろうと、ずっとそのオチを待っていました。

映画の流れとしては、その原因が強にあるとしか思えないのですが、「加代ちゃんがよければ」と答えた時の志乃の表情には迷いは感じられず、その言葉も加代への依存ではなく、その前の(確か)加代の「志乃ちゃんさえよければ」への返しとして、志乃に笑顔もあったがために、志乃自身の意志として強を受け入れたと思えましたので、自己紹介時のトラウマ的な思いはある程度解消されているんだろうとしか思えなかったからです。

ところが、それがいっこうに明らかになりません。

志乃と強のシーンもあり、ついには、強が「おまえ、だせぇーよ!」とキレて、逃げってんじゃないよだったか、そんなような言葉を投げつけていましたので、何だろう? 何があるだろう? まさか恋心…? と予想して見ていました。

結論から言いますと、特に何もありません。自己紹介時の屈辱的な強の態度からくる拒絶感でした。もちろん強個人というよりも、強のからかいのイメージから広がる、自分を取り巻く全体(世界)からの屈辱感(だけではないとは思うが)が拒否反応を生むのだと思います。

ただ、映画的に言いますと、それならば、あの「加代ちゃんがよければ」のシーンは次なる展開を混乱させます。

結局、志乃が「こんなに苦しいのなら、ひとりのほうがいい」と決定的な言葉を吐き、加代が「じゃあね、バイバイ」と、「しのかよ」は解散になってしまい、再び、志乃はひとりで弁当を食べる日々、加代はいつも物憂げに窓の外を見る日々に戻ります。

そして、文化祭、それでも加代はひとりでデュオグループ「しのかよ」を名乗り出場します。加代が作曲し、志乃が詩を書く予定だった「魔法」を歌います。もちろん調子っぱずれです。

その歌声を外で聞いていた志乃が体育館に飛び込んできてつっかえつっかえ叫びます。

ひとつひとつの言葉は記憶していませんが、おおよそ内容は、吃音であることで笑われるなんて不公平だ、なぜ私だけ!?という心からの叫びであり、その自分の心情を、笑われることを恐れるもうひとりの私がいて、その自分が私を追いかけてくる、私が私を苦しめていると、つっかえながら絞り出すように叫び、最後に、

「私は、お、お、おおしま、しのです」

と、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫びます。

後日、相変わらずぽつんとひとり机に座っている志乃に「これ、あげる」とジュースが置かれます。見上げると、(多分)前の席の子が自分も同じジュースを持って立っています。

おしゃれな終わり方ですね。続編でもありそうな感じです。

原作なのか、シナリオなのかわかりませんが、最近の青春ものは、音楽、海、友情など、昔ながらの定石を使っていても物語は最後までシリアスですね。

世の中、ちょっとだけ変わることはあっても決定的によくなることはないということでしょうか。

てっきり、文化祭のシーンは、加代の調子っぱずれな歌の途中から志乃があの澄んだ声で歌いながら入ってきて号泣!というパターンとなるのかと、むちゃくちゃベタなラストを予想していました(笑)。