灼熱の魂

オイディプス変形のミステリー・エンターテインメント

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の2010年の映画「灼熱の魂」のデジタル・リマスター版です。ヴィルヌーヴ監督の映画は「プリズナーズ」「ブレードランナー2049」「DUNE/デューン 砂の惑星」と見ていますが、残念ながらこの「灼熱の魂」は見ておらず、これがいわゆる出世作となりハリウッド進出を果たしたことも知りませんでした。

灼熱の魂 / 監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ

おぞましき悲惨な物語

それにしてもおぞましい話です。こんなおぞましい、あってはいけない話をエンターテインメントで消費してもいいのだろうかというのが第一印象です。

本来こうしたおぞましき物語は「オイディプス」がそうであるように、当事者である人間が運命に翻弄されて犯してしまった罪に苦しむという人間存在についての考察があってしかるべきで、この映画のように運命的に起きてしまったことを解き明かしていくだけというのもどうなんだろうとは思います。

もちろん、えぇー、マジか?! とは思いますが、それだけで終わってしまいます。

オイディプス、映画で言えば兄であり父である男の苦悩が『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』であり、娘ジャンヌの苦悩が『アンティゴネー』になるはずのもので、この映画の物語はその前段でしかありません。

さらに、この映画の悲劇は、宗教対立や民族対立から起きる戦争という人為的なものによって引き起こされているにもかかわらず、映画はどことなくそれを遠ざけているようなところがありますので余計にそう感じます。

とは言っても、この映画の時代背景となっているレバノン内戦や長きにわたる中東の戦争を考えれば、この映画のようなことも実際に起こり得るのではないかとも思え、映画を見終えて言葉をなくす感覚を味わったのも事実です。

この映画はレバノン出身のカナダ人劇作家ワジディ・ムアワッドさんの2003年の戯曲「Incendies」をもとにしているそうです。どんな戯曲なんだろうとググっていましたら、日本でも2009年に「焼け焦げるたましい」のタイトルで上演されていました。

舞台劇であればおそらく、母ナワルの過去が明かされていく物語だとしても、そこには必ず娘ジャンヌや息子シモンがその場に登場しているものと思われますので、かなりギリシャ悲劇に近いのではないかと思います。全くの想像です。

ナワルはなぜ遺言を残したのか?

映画は謎解きミステリードラマです。亡くなった母親が残した不可解な遺言に従って二人の子どもたちが母親の過去、そして自分たちの出自を知ることになる物語です。

アラブ系の少年たち十数人(くらいいた…)が大人に丸坊主にされているシーンから始まります。ひとりの少年のかかとに3つの点(…を縦にした感じ)があります。わざわざアップで示されているわけですからこの少年が物語のキーになることはわかります。

母ナワルが突然プールで瀕死状態に陥ります。その後亡くなり、ナワルの雇い主であり公証人であるルベルがナワルの双子の姉弟ジャンヌとシモンに遺言を開示する流れになります。

これ、この段階では違和感はなかったのですが、ラスト近くにナワルがベッドに横たわってルベルに耳打ちするシーンがあり、あれは何を伝えたんだろうと考えていましたら、あの遺言は事実を知ったがゆえのものですので、自らの死期を目前にしたあの時にルベルに遺言を伝えたとしか考えられず、それが可能であったかどうかは映画ですので置いておくとして、なぜ子どもたちが苦しむとわかっているのに、それもすべてを明かすのではなく、なぜわざわざ子どもたちが自ら知ろうとしなければ明らかにならないような複雑な遺言にしたんだろうと疑問が湧き上がってきます。

なぜそこにこだわる? ドラマなんだから発端がいるでしょ、とは思いますが(笑)、多分気になるのはこの映画に作りもの臭さを感じているからだと思います。たしかにこれはショッキングな物語ではありますが、ショッキングなものを提示するときにはやはりそこにある種の人間の本質的なことに関わる問題提起がないとそれは単なるエンターテインメントでしかなくなります。

で、ナワルがあの遺言を残したわけを想像してみますと、ひとつは、あのまわりくどい遺言からすれば、自らの息子であり自らを犯した男への復讐が考えられますが、映画の中ではその男は目をえぐるわけでもなくナワルの墓の前にたたずむだけですのでそれは果たされていません。

次に考えられるのは、ジャンヌとシモンに何かを託したかったということですが、これはどう考えても無理です。これが目的なら二人を傷つけようとしたとしか考えられなくなります。映画ではラストに、ともにいることがどうこうとか教訓的なことでまとめていましたが、二人に残るのは絶望と自らの存在への呪いだけです。オイディプスのふたりの息子は権力争いの末に刺し違えて死に、娘のひとりアンティゴネーは自ら命を断っています。

で、結局、これかなと思うのは、人は死に直面すると自分という存在を残したくなる、この映画で言えば、ショックのあまりそれまで誰にも語らなかった自らの過去を洗いざらいぶちまけたくなったのではないかということです。もう少し丁寧な言葉で言いますと、自らに降りかかったこの残酷な悲劇は決して運命などではなく、戦争という人為的な行為によって引き起こされたものであり、ジャンヌとシモンの二人には受け入れ難い過酷なことであっても、これを残さねば自分がこの世に存在した意味がないと考えたのではないかということです。無理やりだとしても、こう考えれば、映画のもつ意味合いも大きく変わってきます。

と考えれば、この映画がレバノン内戦という事実を背景にしながら、そのことよりも悲劇性というドラマに重点を置いているのは残念なことです。

プロットの重さで見えなくなる物語の粗さ

すでに書きましたように、この映画は罪を犯した人間やそのことによって自己存在への懐疑というとてつもない重荷を背負わされた人間を描いているわけではなく、その経緯が描かれている映画です。

キリスト教徒の一家に生まれたナワルはイスラムの男性と恋に落ち身籠ります。兄たちは皆に知られれば村にいられなくなると言い、その男性を射殺します。ナワルは密かに出産します。生まれた男の子は踵に3つの点の印をつけられ遠くへやられ、ナワルは村を出て都会で暮らす叔父(だったと思う)のもとで大学にまで進みフランス語を学びます。

成長したナワルは息子を探す南部への旅に出ます。南部はイスラムの党派に支配されキリスト教徒との間に紛争が起きています。旅の途中、ナワルはやってきたバスに乗ろうとし、そのバスがイスラムのバスと知るや首にかけていた十字架を隠し、持っていたスカーフで頭を覆います。バスがキリスト教徒の検問にあい、乗客たちは虐殺されます。その時ナワルは隠していた十字架をかざし、キリスト教徒よ!と叫び難を逃れます。

その後ナワルはイスラムの党派のアサシンとなり、キリスト教右派の大物の家に子どものフランス語の家庭教師として入り込み、その大物を暗殺します。拘束されたナワルはその後13年間(だったか?)独房に入れられ、拷問を受け、一人の男にレイプされ続けます。

その後ナワルはレイプされ身籠った双子を出産し、開放され、イスラムの党派の手により子どもたちを連れカナダに逃れます。

そして、30年後(くらいだと思う)、娘のジャンヌとプールでくつろぐナワルは踵に3つの点を持つ男と遭遇します。男の顔を見ますと自分をレイプし続けたあの男です。

ショックのあまり瀕死状態となったナワルは双子のジャンヌとシモンに遺言を残します。娘ジャンヌには兄を探せ、息子シモンには父を探せ、そして二人に手紙を渡せ、と。

映画は、という遺言が残されたところから始まり、ナワルの過去が明らかになっていくつくりです。ナワルが牢獄で出産した時点で双子と語られますので、それがジャンヌとシモンであることは中盤でわかります。ですので、映画はその時点で、あるいはと思いながらもまさかという考えを抱くようにつくられています。

その点では、この映画がプロットの重さだけで成り立っているとは思いませんが、物語を抜き出してみますとそのプロットを成立させるためにかなり無理をした物語になっていることがわかります。

ナワルという人間を描いていれば…

ナワルは十字架をかけていますのでキリスト教徒と自覚していると考えられます。しかし、自らの生存のためには十字架を隠し、ヘジャブでイスラムを装うことも厭いません。逆の危機がおとずれれば隠していた十字架を示し危機を逃れようとします。

批判しているわけではありません。この映画をそのプロットの重さから逃れて見直して(深読みして)みますと意外にも人間の本質的なものがみえてくるということです。

さらにナワルは、十字架を使ってその難を逃れたと思いましたら、今度は、キリスト教右派の虐殺行為を目の当たりにしたためにイスラムの党派の刺客になりキリスト教徒を殺害します。

また、ナワルの行動の原動力をみてみましても、発端となるのは恋愛感情、その後は子どもを取り戻したいとの意思を10年ほどは持ち続けていると考えられますが、虐殺行為を目の当たりにしてからは義憤としか考えられない感情で10年来の子どもへの思いを飛んでしまっているかのようです。

カナダに移ってからについては何も語られませんが、息子シモンの言葉からすれば決していい母親ではなかったようですので、自らの過去や子どもたちへの思いや対し方に悶々とした日々で相当苦しかったんだろうと想像します。

イオカステは自らの息子と交わり子どもを生んだことを知るや命を断ってしまいます。

この映画は従属的にしか存在させてもらえなかったイオカステ=ナワルを描く絶好の題材だったのにと、少し残念に感じます。