選ばなかったみち

レオは認知症の後期、ひとりで置いておける状態ではないと思うが…

サリー・ポッター監督が、若年性認知症を患った弟さんを介護した(公式サイト)ことから着想したという映画です。認知症の父親レオを演じているのはハビエル・バルデムさん、そしてその娘モリーをエル・ファニングさんが演じています。

選ばなかったみち / 監督:サリー・ポッター

選ばなかったみち

ファーザー」という、認知症の患者の視点で撮ったと言われた映画があります。リンク先のレビューを見てみましたらまだ一年も経っていない昨年の5月でした。アンソニー・ホプキンスさんがアカデミー賞主演男優賞を受賞しています。

その映画も主に父親と娘の関係で認知症というものが描かれていくのですが、そこでは父親が見ている世界が映像化され、たとえば、父親の記憶の混乱が、実際にはいない人物を見たり、娘が他の人物に見えたりするという映像として表現されていました。

この映画も同じように父親が見ている世界が映像として描かれるのですが、ただ、「ファーザー」ではまだ父親と娘の現実的な接点が可能な時間もありましたが、この「選ばなかったみち」では現実的な接点はまったくありません。父親レオは映画全編でまさに自分が「選ばなかった」世界をさまよっており、娘モリーを含めた他の誰とも現実的な意思の疎通ができなくなっています。

「選ばなかったみち」はふたつです。

ひとつはメキシコ、現在のレオはニューヨークで暮らしていますがメキシコからの移民です。メキシコで初恋の女性ドロレスと生きている世界がひとつ、そしてもうひとつは、アメリカで作家となり、結婚し、娘モリーが生まれたものの、その泣き声がうるさく、創作に集中できないからとひとりでギリシャへ逃亡した世界です。

現在のレオはニューヨークのアパートメントでひとり暮らし、認知症となった今、通いのヘルパーさんが世話をしています。住まいは窓際を電車(地下鉄?)がひっきりなしに走っているところです。社会的にも金銭的にも生活レベルがあまりよくないという設定でしょう。

この3つの世界、現在、メキシコ、ギリシャの世界がモンタージュされて認知症の世界を描こうとしたのがこの映画です。つまりサリー・ポッター監督には、認知症の弟さんが過去に「選ばなかったみち」を生きているように見えたということだと思います。

選ばなかったみちは過去?現在?

で、描かれる選ばれなかったふたつのみちは一見過去のようにもみえますが、3つの世界とも、レオは同じ年齢設定で撮られています。そのつもりかどうかはわかりませんが、見た目、ハビエル・バルデムさんはまったく変わりません。ですので、その設定であると考えれば、メキシコもギリシャも過去の記憶ではなく「選ばなかったみち」の現在のレオということになります。

つまり、メキシコの物語もギリシャの物語も何がどうなってといった具体性においてはあまり意味はなく、意味があるのはどちらの世界でもレオは静かに死を迎えている(ように見える)ということです。

メキシコ

メキシコの世界ではレオはドロレスと暮らしており子どもを亡くしています。「死者の日」です。ドロレスがしきりに一緒に行こう(子どもに会いに行こうという意味だと思う)と誘いますが、レオは頑なに拒絶します。子どもの死を受け入れられないということのようです。

それでもレオは、ひとり車で墓地(かな?)に向かったドロレスを走って追いかけたりします。再び車の中での争いになり、車を飛び出し、放浪し、通りがかりの車に乗せてもらい、結局墓地にたどり着き、ドロレスと抱擁し、子どもの墓の上にふたりで横たわります。死を連想させます。

ギリシャ

ギリシャの世界も同じようなものです。ギリシャの海岸沿いの片田舎、リゾート地のようにも見えます。レオがカフェ(日本なら海の家)にいます。女性がふたりやってきます。現在のモリーくらいの年齢です。レオが、自分は小説家だ、結末に困っている、どう思うかと声をかけます。内容は? と聞かれて、レオが、20年前に祖国を捨てた男が祖国へ帰るべきかどうか迷っていると言いますと、女性はもう誰も待っていないと答え、さらにレオが男は後悔しているんだと言いますと、女性はもう遅すぎると答えます。

ほぼナンパなんですが、その後レオは、また別の場所でたまたま見つけたからと声をかけ、さらに女性たちが船上パーティーに船で出航していきますとその後を手こぎボートで追い掛けます。船の近くまで行くもののそれ以上の行動をするでもなく、また追い掛けてみたりを繰り返し、そしてボートに乗ったまま息絶えます。発見した漁師が脈をみていました。

モリーの見ているもの

このメキシコとギリシャの世界がレオが見ている世界です。では娘のモリーは何を見ているのか。

モリーが見ているものは現実の認知症のレオです。

映画の冒頭、制作会社のロゴが何社か映し出されるバックに電車の走行音、呼び鈴の音、電話の呼び出し音などSEがけたたましい感じで流れます。何かが起きているといった不穏な空気です。しばらくすると横たわるレオの姿が映し出されます。レオの目は現実を見ていません。ドアの開閉音があり、モリーとヘルパーが駆け込んできます。モリーがレオにドアの開閉はこのボタンよとベッドの脇のボタンを示します。

つまり、ヘルパーさんがドアの呼び鈴を鳴らしたのにレオがドアを開けないのでモリーに電話をし、モリーが駆けつけたという設定です。

この映画、私には初っ端から違和感を感じっぱなしの映画で、レオの世界の映画ではなく、モリーの側のまわりの者の問題を指摘する映画じゃないかと思ったくらいです。

この映画のレオは最初から最後までモリーやまわりの者と意思の疎通ができる瞬間はほとんどありません。自分の世界に入りっぱなしです。モリーはレオのその状態が今やってきたことのようには対していません。同じ状態が続いているという対し方です。

なのに、この状態のレオをひとりで置いておくの?!
ヘルパーさんは鍵を持たずにドアベルを鳴らしてレオに開けさせるの?!
そのレオを歯医者だ、目の検査だと連れ回すの?!
徘徊の可能性があるのにレオは自由に出られるの?!
認知症のレオにいちいち聞き返したり、説き伏せようとしたりするの?!

と、この映画いったい何やってるの?! ということです。

モリーはまったくレオの認知症を理解していません。ヘルパーさんを頼んでいるわけですから介護の意志はなくてもいいでしょう。でも、少なくとも自分の世界にしか生きていない今のレオを理解しようしなくてはいけないでしょう。モリーはレオを自分の世界(現実)に引き戻そうとしているだけです。パパ、私よ、わかる? と声をかけ続けています。

つまり、モリーは単なる傍観者です。さらに言えば、サリー・ポッター監督は弟さんの認知症に対して介護の立場(公式サイトに書いてあるだけなのでわからない)ではなく観察者の立場で対していたということだと思います。そこから生まれた映画にしかみえません。

レオの認知性は後期に入っている

レオの認知機能はかなり落ちてきています。歯医者や目の検査に連れて行っていますが、医師の言葉の意味を理解できていません。失禁もします。言葉も出てきません。会話も成立しません。

ひとりで置いておける状態ではないでしょう。病気の人間に適切な対処をしないのは虐待です。映画だからいいというわけではないと思います。

そんなことが気になってしまう映画ということです。

ところで、現実のレオの髭が中程からなくなって顔がつるっとしていました。どういうことなんでしょう?

ファーザー(字幕版)

ファーザー(字幕版)

  • アンソニー・ホプキンス
Amazon