アンドレア・ライズボローの演技は評価されるべきもののスウィーニーのいい人ぶりと地域コミュニティの暴力性が気になる…
アルコール依存症の女性が心やさしき男性の助けで再起するという話です。現実感はありませんが過剰さがなく見やすい映画です。主演のアンドレア・ライズボローさんが今年2023年のアカデミー賞主演女優賞にノミネートされています。受賞したのは「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」のミシェル・ヨーさんでした。

何がレスリーを変えたのか…
19万ドルの宝くじに当選したレスリー(アンドレア・ライズボロー)は、6年後そのお金を使い果たしアルコール依存症になっています。
時代設定はわかりませんが、宝くじに当選した際のニュース映像が VHS に録画されており、そのテープを再生するビデオ付ブラウン管テレビがモーテルに置かれているわけですから、3、40年前の時代設定なんでしょう。
仮にそうだとして、映像的に現在の話としても違和感がないのは場所がテキサス州の田舎ということもあるのかも知れません。日本だって、バブル崩壊後は都会の中心部を離れればほとんど変化はありません。
それはともかく、レスリーがアルコール依存症になった6年間の経緯などの画はなく、多少会話の中ででてくる程度です。徹底してアンドレア・ライズボローさんの演技で見せていく狙いです。その点では、この人抜け出せないだろうと思えるくらいでしたので結構良かったと思います。
レスリーは、今は地元を離れて転々としているのでしょう、住まいにしているモーテルから追い出され、息子ジェームス(オーウェン・ティーグ)を頼るも、ジェームスの同僚のお金を盗んでまで酒を飲むにいたり、ジェームスによって地元のダッチ(スティーブン・ルート)とナンシー(アリソン・ジャネイ)のもとに送り返されます。この二人はレスリーとも親しく、レスリーがネグレクトでジェームスを置き去りにしたときに助けた人物で、ジェームスが泣いて頼んできたのでいやいやながらも受け入れたということのようです。当然、両者にはいがみ合いもあり、レスリーの飲酒が止むわけもなく、けっきょく二人の家からも閉め出されます。
で、助けてくれるのがモーテルの経営管理をしているスウィーニー(マーク・マロン)です。映画的にはスウィーニーがレスリーを助けようとする動機のようなものは何もありません。ただやさしいだけとしか見えません。スウィーニーはレスリーにモーテルの清掃の仕事を与え、その一室に住まわせます。レスリーはいきなり給料の前借りを頼むわけですから飲酒は止まず、仕事の時間にも寝過ごしたりします。
それでもスウィーニーは怒ることもありませんし、なにか魂胆があるわけでもなさそうです。これがまったく映画的ではないのですが、逆に言えば、だからこそベタな話なのにベタにならずにすんでいるということも言えます。
結局、レスリーが立ち直れたのは本人の自覚です。自覚するためにはスウィーニーの無欲のやさしさとロイヤル(アンドレ・ロヨ、モーテルのオーナー)の無関心さがあったからということかと思います。
もちろん、現実的にはありそうもないファンタジーではあります。
アルコールであれ何であれ、依存症から抜け出すためにはまずは本人の意志がなければ何も始まらないわけですが、実際にはこの映画のようにはいかなく、治療や療法といった医学的な処置が必要になるんだろうとは思います。
地域コミュニティの怖さ…
それは置いておいても、この映画を見ていて、レスリーがアルコール依存症になる6年間に何があったんだろうと考えてしまいます。
映画のラストは、レスリーがスウィーニーとロイヤルの協力でモーテルの向かいにダイナーをオープンさせ、そこにナンシーがやってきて、過去6年の間のことについて助けることはできたのにそうしなかったと謝罪していきます。
6年間のことは何も描かれませんし、そうである以上、脚本や監督はそこには注目していないんだろうとは思いますが、映画冒頭の宝くじを当てたレスリーのハイテンションぶりからすれば、周りのみんなはレスリーをもてはやし、あるいはその金目当てにたかった者もいるかも知れません。バーのシーンで、レスリーが酔っ払って自分の写真が貼ってあったはずだと喚き散らすシーンがあります。
でも、今は誰もレスリーに見向きもしません。6年前であれば、皆がレスリーをもてはやし、レスリーはいい気になって大盤振る舞いしたかも知れません。そんなシーンが浮かんできます。
偏見であるかも知れないことを厭わず言えば、地域コミュニティというものはそうした保守的閉鎖性を持っているものです。
スウィーニーがそうしたことを知らないよそ者であることは、この映画がファンタジーとしてしか成立しないことを示しています。ロイヤルが夜中に素っ裸で踊ったり奇声を発したりすることも、ある種コミュニティには受け入れられない異質なこととの意味があるように思います。
宗教性
それとともにちらちらと見え隠れする宗教性も気になります。
バーのシーンで、高齢の男性がレスリーの両親の話をするシーンがあります。正確には記憶していませんが、レスリーの母親は教会で演奏するような、あるいは賛美歌を歌うようなそんな人物だったと言っていたと思います。
IMDbを見ますと、その両親もちゃんとキャスティングされています。おそらく、映画冒頭の6年前のニュース映像に続き、レスリーがアルコール依存症になっていくシーンが撮られているのだと思います。あるとすればレスリーと両親の葛藤シーンでしょう。レスリーの会話の中にも、両親への恨みつらみの言葉があります。
これまたまったくの想像ですが、それらがカットされているとすれば、興行上の判断でしょう。宗教性において保守化が進んでいるアメリカであればそうした判断が生まれてきても不思議ではありません。
これらは私の妄想です。
スウィーニーはいい人ぶり過ぎないか…
レスリーの立ち直りのきっかけにはっきりしたものがないとはいえ、その変わり目となる出来事がないわけではありません。スウィーニーがレスリーの過去のネグレクトを知り、レスリーを強く非難したことです。
そのシーンの前には、スウィーニーの妻もアルコール依存症で、教会活動で抜け出すことはできたが、牧師と愛情関係が生まれ去っていったと話します。ただ、妻とは会わないが、娘とその孫とは今でも親しくしており、実際に地域のお祭りで娘と孫をレスリーに紹介しています。そのシーンでは疑似家族的な楽しい一日が描かれ、そしてその後にスウィーニーはレスリーの過去のネグレクトを知ります。
映画的にはスウィーニーの愛の告白(唐突すぎる…)の前ぶりだとは思いますが、そもそもジェームスの父親の話は皆無である上に、スウィーニーにしても妻を悪者にして自分はいい子ぶるというはどうも納得がいかない話ではあります(笑)。
シングルマザー、ネグレクト、かなり安易な設定の映画ではあります。