家父長制はあらゆる人の人間性を押しつぶす、特に女性のだが…
パキスタンが関係する映画では「汚れたミルク」とか、パキスタン系移民のイギリス映画「ポライト・ソサエティ」「カセットテープ・ダイアリーズ」といった映画を見ていますが、パキスタン人監督によるパキスタン映画は初めてです。
この「ジョイランド 私の願い」は2022年のカンヌ国際映画祭ある視点部門に出品され、審査員賞と全作品を対象とした独立賞であるクィア・パルム賞を受賞しています。
家父長制、男らしさ、トランスジェンダー…
映画としてうまく出来ています。物語の上で端折られている部分が結構ありますので、ん? と引っかかりますが、しばらく見ていますとほどよくわかってくるというつくりになっています。
全体のテーマとしてはパキスタン社会の家父長制によって個が抑圧されているということですが、ただそれが個人的な権威によって成立しているわけではなく長く社会規範として存在しているために個々人に内面化していたり、たとえば、疑問を感じても強く言えないといったソフトなイメージで描かれます。
描かれる家族は、老齢の父親とその息子たちである兄夫婦と弟夫婦、そして兄夫婦の数人の女の子たちがひとつ屋根の下で暮らしています。こうした生活環境が一般的ということなんでしょう。
で、何がソフトイメージかと言いますと、たしかに家族内の最終的な決定権は家長である父親にあるのですが、兄の妻にしても弟の妻にしてもきっちり主張はしますし、とにかく明るいです。映画の始まりでは弟には職がなく、兄の妻とともに家事と子育てをしているわけですが、そのこともさほど大きな問題としては描いていません。父親にしても身体に自由がきかなくなっていることもあるのでしょう、さほど権威的な印象はなく、そういうものだ程度に振る舞っているようにみえます。
まあそうは言っても、染み付いた価値観というのは抜け出すのが一番難しいことですので、それがもとで最後に大変なこととなってしまいます。男の子の誕生を望むという、いわゆる男尊女卑の社会通念(それだけではないけど…)が弟の妻を押しつぶしてしまいます。ただ、え? 何が起きたの? と思いますし、ほどなく、あー、そういうことかとわかるにしてもちょっと違和感はあります。
また、映画はそれだけではなく、トランスジェンダーかつトランスセクシュアルのダンサーと弟の恋(じゃないかも…)と性を描いたりして、家父長制だけではなく、男らしさを求められたり、LGBTQ への偏見など社会全体にある個の自由に対する社会の抑圧を、これもまたソフトに描いています。
働くムムターズ、家事するハイダル…
弟ハイダル(アリ・ジュネージョー)が室内で兄の子どもたちと遊んでいます。兄の妻ヌチ(サルワット・ギーラーニ)が破水したと、しかし慌てる様子はなく、ハイダルにバイクで病院へ連れて行ってほしいとお腹を押さえています。子どもたちが床にこぼれた羊水を布で拭き取っています。
かなり意表をついた始まりですがさらりと流しています。こういうところがうまいですし、映画的センスがいいです。
設定はこういうことです。ハイダルはヌチと一緒に料理などの家事と兄夫婦の子育てをしており、妻ムムターズ(ラスティ・ファルーク)が美容師(メイクアップのみかも…)として働き、兄サリームとともに家計を支えています。
ヌチは3人目か4人目かの女の子を出産します。サリームが医師に男の子と言ったではないかと嘆いています。男の誕生が待ちわびられている家族ということです。
その後のシーンがよくわからなかったのですが、父親がハイダルになにか動物をどうにかするよう命じていましたので何だろうと思いましたら、その動物を殺してその肉を近所に振る舞っていました。犬のようにも見えましたが、イスラムでは犬は不浄なものですので食べるなんてことはないと思いますし、何だったんでしょう? それにこの家族の宗教がイスラムではないかもしれません。
このシーンではハイダルがその動物を殺すことを躊躇するところと、それを見たムムターズが手を出すことでハイダルが後押しされるところを見せています。ハイダルは父親から、いわゆる男らしさという男性性を求められているのにそうした人物ではないということです。
ハイダルが友人から紹介された仕事の面接に行きます。トランスジェンダーたちが踊るステージショーのバックダンサーです。踊ってみろと言われて踊れもしないのにやってみるところなどもハイダルの人物像の演出としてなかなかうまいものです。
興行主からは才能がないと言われますし、ハイダルも望んでいるような仕事ではないのでしょう、一旦は断りますが、ビバ(アリーナ・ハーン)を見て引き受けます。実はビバのことはヌチを送った病院で見ており、そのとき、恋であるかどうかはわかりませんがその姿に釘付けになっているのです。ところで、その時のビバが血まみれに見えたんですが、その後何のフォローもありませんでしたので何だったんでしょう。
ハイダルの性自認と性的指向…
家族が揃っています。ハイダルが仕事が見つかったと言います。劇場の支配人の仕事と嘘をつきますが、そのことはあまり重要ではなく、ハイダルがやってきた家事と子育てを誰がやるかということになります。ヌチは一人では出来ないと言い、皆の視線がムムターズに集まります。ムムターズは仕事は生きがいだからやめたくないといいます。父親に視線が集まります。父親は、これからはハイダルが稼ぎ、ムムターズが家事をすると決めます。
このシーンにも一切刺々しさのようなものは感じられず、しかしそれがあたかも自然なことであるかのようにムムターズに覆いかぶさります。
ここからしばらくはハイダルとビバの話になります。
ビバはショーでは幕間にしか踊らせてもらえない立場ですが、あれこれハイダルの手助けもあって後半になりますとメインのダンサーとなります。その過程でハイダルと愛し合う関係になるわけですが、ハイダルのビバへの気持ちが何なのかはなかなか難しいところです。
ハイダルはおそらく第三の性と呼ばれるヒジュラーの一員であり、トランスジェンダーであり、かつトランスセクシュアルの過程にあるのだと思います。ホルモン療法によって女性的な体つきになっていますが、男性器は残っており、本人は手術をしたいと言っています。
ラブシーンが2、3度あり、その最後のシーンでは濃厚なキスシーンからお互いに下半身に手がいき、ハイダルが誘うように後ろを向いて挿入を促そうとするのです。ビバが何をさせるの!と拒否します。ハイダルはしきりに謝りますが、ビバが許すことはなく、二人の関係は終わります。
ハイダルの性自認や性的指向はなかなかひとことでは言えない難しさです。ビバが手術をして男性器を取りたいと言っていたときにハイダルはそのままのほうがいいと言っています。おそらくハイダルはゲイであるのかバイセクシュアルなのかはわかりませんが、性的指向として力強いものに惹かれる人物という設定なんでしょう。
家父長制の中の女性たち…
そして再び物語の焦点はムムターズに移ります。
ハイダルの帰りが深夜になることが多くなり、悶々とする日々が続いています。ある日、ヌチからジョイランド(遊園地のこと…)へ行こうと誘われます。父親の面倒をみなくてはいけないと迷いますが、ヌチが近所のおばさんに頼む段取りをつけて二人で出掛けることになります。
ヌチは家父長制の中の女の役割に甘んじているように見えますが、ムムターズに自分はインテリアデザイナーの資格を持っていると言っていますし、しっかりと自己を持った女性として描かれています。
ジョイランドではきらびやかなイルミネーションのシーンやジェットコースターのシーンがありますが、自由を満喫する二人で盛り上げようとの意識はなさそうで、むしろ留守にしている間に車椅子の父親が失禁したり、その後、おばさんが父親のベッドで眠ってしまい翌日になったり(ということだと思う…)することで家長たる父親の権威を落とす意図があるのだと思います。
それにしても、あのおばさんは可愛そうでした。翌日でしょうか、その息子がうちの母親をどうしてくれるんだと怒っています。しかし、逆に母親があんたはいつも出掛けてばかりで家にいたことがないと逆ギレし、私はここに残ると宣言します。息子が去った後、おばさんは父親にここにいさせてくれる?と尋ねます。父親はハイダルが家まで送ると言います。
現在の日本ではなかなか理解できない展開ですが、とにかくこうしたこともさらりと流すようにつくられており、ふーん、そういうものかなと思いながらもジワジワとソフトな家父長制も怖いなあなんて気持ちが湧いてきます。
ムムターズの憂鬱の向こう側…
ムムターズが妊娠していることがわかります。男の子です。ハイダルは何だったか忘れましたが仕事を変えています。ビバのことなどどこ吹く風で、どことなく誕生を待ちわびている様子です。それとともにムムターズの憂鬱が深まっていきます。踊るように激しくジャンプを繰り返したりと流産を望んでいるようです。
このあたりのムムターズの心情が描ききれていないのはちょっと残念です。実際その後自殺してしまうわけですので、もう少しなにかシーンを入れないと観念的過ぎて説得力に欠けます。
子どもを生むことのプレッシャー? もう二度と仕事に戻れないことの絶望感? 息詰まるような生活環境?
家父長制への復讐? それですと物語の次元が変わっちゃいますねえ。だからあえてムムターズの心情を描かないことにした? それもあるかもしれません。
ムムターズがバスルームでトイレタンクの中からボトルに入った薬のようなものを取り出して飲んでいます。ハイダルがまだかと声をかけますとムムターズはその状態のままドアを開けます。ハイダルは気づくこともなく洗面所で用を済まして、先に寝るよと言って出ていきます。
次のシーンはもうムムターズの葬儀です。もうひと月待てば男の子を残していけたのになどと男たちがあからさまにムムターズを非難しています。
そして映画はハイダルとムムターズのフラッシュバックで終わります。
ハイダルがある家を訪ねます。ドアを開けたのはムムターズです。格子越しにお互いに相手を確かめ合います。つまり、親が決めた結婚であるけれどもどんな人が確かめに来たということでしょう。ハイダルの一緒にやっていけるかの問いにムムターズの「仕事をやめなくてもいいのなら」の答えで終わります。
パキスタンという社会の一面がよく伝わってくるいい映画でした。監督はサーイム・サーディクさん、この映画が初の長編です。センスがいいです。1991年生まれの33歳です。