バビロン

ネタバレレビュー・あらすじ・感想・評価

セッション」しか見ていないデイミアン・チャゼル監督だと思っていましたが、このサイト内を検索しましたら「ファースト・マン」という人類で初めて月に降り立ったニール・アームストロングさんを描いた映画を見ていました。何も記憶しておらずびっくりです(笑)。

バビロン / デイミアン・チャゼル

「ラ・ラ・ランド」の前編?

ラ・ラ・ランド」を見ていないのになんですが、この「バビロン」が、アメリカ映画がサイレントからトーキーに変わりつつあった1926年からの数年と、そしてラストシーン、マニーが1952年に公開されたミュージカル映画「雨に唄えば」を見つめながら自らの過去への感傷と、それでも失わない映画への憧れに満ちた涙を流していることから考えれば、デイミアン・チャゼル監督の思いとしてはこの2つの映画はつながっているのかもしれません。

チャゼル監督にはミュージカルに強い思いがあるようですので、あながち間違いとは言えないでしょう。

それにしても、お金使いすぎでしょう(笑)。製作費8000万ドルらしいです。100億円ですよ。どこにどれだけのお金がかかるのかはわかりませんが、エンドロールを見ていましたら音楽関係にすごい人数が並んでいました。

確かに音楽はよかったです。音楽担当のジャスティン・ハーウィッツさんは、チャゼル監督とはハーバード大学時代からの友人らしく、「セッション」「ラ・ラ・ランド」「ファースト・マン」に続いての担当ですので、音楽映画という点から考えれば、ハーウィッツさんはチャゼル監督の映画にはなくなてはならない人ということになります。

「セッション」は鬱陶しかったんですが(ペコリ)、この映画の音楽はよかったです。

物語よりも音楽

物語の大筋は、アメリカ映画がサイレントからトーキーに移っていく時代の中で、サイレント映画の大スターであるジャック・コンラッド(ブラッド・ピット)の栄華と凋落、スターになることを目指し実現していくネリー・ラロイ(マーゴット・ロビー)、そしてその二人を見つめながら自らも映画界に足場を築いていくマニー・トレス(ディエゴ・カラバ)の3人を追っていくつくりになっています。

ただ、個々の人物を描くドラマとしてはかなり雑です。というよりも、そういう映画ではありません。ジャックに関しては若干内面性を描くシーンもありますが、とにかく全体としては音楽のパワーと勢いで見せていく映画です。

ですのでドラマとしてはダイジェスト版みたいな内容で、3時間、どんなシーンがあったんだろうと思い返してみても、なにやら騒々しかったなあくらいの記憶しかありません(笑)。

マニーはチャゼル監督の思いの反映…

マニー(ディエゴ・カラバ)が狂言回し的な立ち位置になっています。おそらくチャゼル監督の映画への思いがマニーに反映されているのでしょう。

マニーが映画会社のウォラックの邸宅で行われるパーティーに象を運んでいきます。なぜ? と思いますが、どうやら皆を驚かせる趣向というのは建前で、映画的には象に脱糞させるためということのようでした。パーティーは下劣、醜悪、俗悪、下品の極みです。2,30分あったと思います。でもまあ、全体としては造形的ではありましたのでさほど嫌な感じはしなかったです。

ネリー(マーゴット・ロビー)がかなり露出の多いドレスでやってきます。招待客ではありませんが、そのパワーで圧倒しつつマニーの助けもあってパーティーに潜入します。そして、パーティーで目立ち、進行中の映画の役を得ます(ただ踊っていただけだけど…)。

ジャック(ブラッド・ピット)がやってきます。今の自分に満足していないのか、映画界に疑問を持っているのか、バウハウスがどうこうとか言いながらどことなく憂いを感じさせています。でも、それだからこそ? 酔いつぶれます。

マニーはジャックに気に入られ映画界への足がかりをつかみます。

翌日、早朝から荒野で撮影です。端役だったネリーは持ち前のパワーと要領よさと涙の演技でチャンスをつかみ、その後スターへの道を駆け上がっていきます。

ジャックは二日酔いでフラフラにもかかわらず、カメラが回れば夕日を背景にビシッときめて、さすが大スターの貫禄です(か…?)。

という感じでいろいろ(あまり記憶していない…)あり、時は移り、映画界はトーキーの時代へと変わっていきます。それとともにジャックが必要とされる映画も少なくなっていきます。

ということを語りたかったんでしょうが、たとえばジャックの声がトーキー向きではないなどの説得力あるシーンがあるわけではなく、時代がかった台詞回しのダサさが嘲笑を浴びるシーンで表現されていましたので、トーキー云々よりも、むしろ単に時代の移り変わりによる栄枯盛衰の印象です。そして、ジャックは拳銃自殺します。

ネリーは映画会社キネマ何とか社の看板女優に上り詰めますが、こちらも時の流れでそのパワフルさが下品に見られるようになり、その頃チャンスを得てその映画会社の重役になっていたマニーとともにハイソサエティなパーティーで一発逆転を狙いますが、ネリーがその面々の鼻持ちならなさにキレて、挙げ句の果てにゲロを吐きまくり業界から去っていきます。後にマニーが読む新聞の片隅に死亡記事が出ていました。

マニーはジャズミュージシャンのシドニーの一言からトーキー向きの企画を思いつき、それが当たったことでプロデューサーとして成功し映画会社の重役になります。

トランペッターのシドニー(ジョヴァン・アデボ)が「雨に唄えば」(時代が違うから違っていたか…?)を歌いながら踊るコーラスよりも俺たちを撮るべきだと言い、ジャズミュージシャンをフィーチャーした映画を撮っていたのは、世界初の商業トーキーと言われる映画が「ジャズ・シンガー」であることからでしょうし、シドニーが顔の色が白すぎるからブラックフェイスにしろと靴墨を塗らされていたのは、「ジャズ・シンガー」の中にそうしたシーンがあるからだと思います。

The Jazz Singer 1927 Poster
http://pd56.org/the-jazz-singer/, Public domain, via Wikimedia Commons

その後マニーは、ネリーが賭博で作ったマフィアへの借金返済騒ぎでメキシコへ逃げていきました。あのマフィアや地下の猥雑な空間はきっと何かの映画のパロディーか、まさかあんなものをオマージュとは言わないでしょうからただ単にヒントにしたシーンだったんでしょう。

そして、ラストシーンは、1952年に飛び、マニーが妻と子どもを連れて撮影所を訪れて感傷に浸り、その後映画を見て涙を流します。あの映画には「雨に唄えば」を含めていろんなシーンがありましたがどういう意味合いだったのでしょう?

他国籍、多様性の意味…?

「ラ・ラ・ランド」にもそうしたところがあるようですが、チャゼル監督はあまり時代設定にはこだわらないようです。

この映画には、他国籍で多様な設定の人物が登場します。主役級のマニーがメキシコからの不法移民との設定ですし、サイレントの字幕を書き歌手でもあるレディ・フェイ・ジューは中国系でレズビアンです。すでにあげたジャズミュージシャンで後に主役級となるシドニーは黒人です。

1920年代の実際のアメリカがどうであったか調べたわけではありませんし、この映画が時代背景を考えていないと言いたいのではなく、むしろあえて中国系や黒人をその役に当てているんだろうと思います。

撮影シーンの監督もそうです。ジャックの映画の監督はドイツ人ですし、ネリーの映画の監督は女性です。実際にサイレント時代にも女性監督はいたわけですので何の問題もないのですが、全体として他国籍、他人種、多様性が意識されているように感じるということです。

その理由はわかりません。なんらかの社会的なメッセージなのかも知れませんし、映画はそもそも多様性を許容できるものということかも知れませんし、いずれにしても意図されたキャスティングだとは思います。

そろそろ(笑)「ラ・ラ・ランド」を見てみましょう。