「アダムの原罪」なんて邦題、AI に「アダムに続く言葉を教えて」とでも聞いたんですかね
病院内の看護師を追った映画では「ナースコール」というスイスの映画がありました。まだ3か月前ですね。この2本、カメラが看護師を追い続けるという点では似ていますが映画の重要ポイントはちょっと違います。「ナースコール」は看護師の過重労働がテーマですが、こちらは看護師が持つべき客観性とオーバーインボルブメント(感情移入による過剰介入…)がテーマです。

ネタバレあらすじ
監督のポジショニング
実は、ローラ・ワンデル監督の前作「Playground/校庭」では、監督のポジショニングやインタビュー記事の言葉にうんざりしていますのでプロデューサーにダルデンヌ兄弟の名前がなければ観ていなかったんじゃないかと思います。
監督とプロデューサーの関係はそれぞれだと思いますが、この映画では確かにダルデンヌ兄弟監督の影響はありますね。前作より映画のつくりがしっかりしていますし、主人公を追うカメラワークはかなり意識されているように感じます。
ただ大きく違うのはやはり監督としてのポジショニングです。
この映画は監督の思いを強く主張しています。そのこと自体は悪いことではありませんが、社会的問題というのはその時点では解決できないから問題なわけで、この映画はあえてそこに踏み込んでおり、かなり強引に物事を進展させています。
具体的に言いますと、母親から離れない子どもに唐突に「ママといたい、でも死ぬのはイヤだ」と言わせて看護師の行為を正当化しています。それまでの60分間のあまりに強い母子の依存関係の描写はなんだったんだろうと思います。さらにその後母親にまで極めて簡単に支援施設に入ることを納得させています。これも看護師の行為の正当化です。
そんな描き方をしても何も変わるわけではなく、結局のところ映画のつくり手である監督の自己満足でしかないということです。
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟監督はそうしたポジショニングの映画は撮らないです。
共依存母子に対するルシーの判断
ルシー(レア・ドリュッケール)は小児科病棟の看護師長です。各病室を見回りながら手際よく作業をし、また他の看護師への指示をしたりと忙しく動き回っています。その行動は冷静であり優先順位を守りつつ的確に作業をこなしているように見えます。
ルシーの目下の懸案は骨折で入院したアダム4歳です。アダムが病院食を食べないために鼻からチューブを通して栄養を入れる経鼻経管栄養の方法を採っています。現在、母親レベッカ(アナマリア・ヴァルトロメイ)がアダムのもとに来ており、ルシーがチューブを抜くところです。
次第にわかってくることはこういうことのようです。
アダムはレベッカが作ったもの以外は食べないために栄養失調に陥り骨が折れやすくなっているのです。どうやらレベッカが外では何も食べちゃダメと言い聞かしていることが理由らしく、アダムはそれを守り通しているのです。また、アダムはレベッカがいないと眠れないなど強度の依存状態にあります。レベッカの方もシングルマザーということもあるのかアダムから離れることを極度に恐れています。明らかに共依存の状態にあります。
入院となった時点で虐待とみなされているということかと思います。すでに行政が介入する事態になっており、原則としてはアダムをレベッカから離す判断がされているようです。しかしながら経鼻経管となったため、レベッカに病院食を食べさせることを同意させて1時間の面会時間を許可したんだと思います。その決定にはルシーの判断と意見が大きく働いているようです。
という基本設定のもと、これからルシー、アダム、レベッカ、看護師の同僚、そして病院の上司、それぞれの思惑が絡んだ、一体何が正しいのだという果てしない葛藤が始まります。
ルシーの判断は正しかったのか
レベッカは自分がいなければアダムは生きていけないと思い込んだ行動を取ります。レベッカにはまわりのすべてが敵です。ただ、ルシーには迷いながらも若干の信頼を感じているようです。
アダムは母親レベッカしか信じません。家のものしか食べちゃいけないと言われていることからすればレベッカ以外の人と接することもほとんどない設定と思われます。レベッカがいなければ食べない、眠れないも当然です。
ルシーは看護師として、経鼻経管よりもレベッカの手によって病院食を食べさせることがアダムにとって最善だと判断したということでしょう。そしてアダムのチューブを抜き、レベッカに病院食を食べさせるように渡します。ただルシーはその場に残るわけではなく病室を離れてしまいます。ルシーはかなり頻繁に動き回りますので、この時、その場を離れなくてはいけない理由があったのかどうか記憶はありませんが、とにかくレベッカは病院食ではなく自分が持ってきたものを食べさせます。そして病院食を誰にも見つからないようにと辺りを伺いながらゴミ箱に捨ててしまいます。
看護師の同僚はルシーに対してレベッカが1時間を過ぎてまだいることを咎めます。警備員(違う字幕だったと思う…)を呼んでレベッカを病院から退去させるべきだと主張します。映画はこの同僚の行動を理不尽であるかのように描いていますが、立ち位置としてはルシーの判断は間違っていると考える立場に置かれています。
そして、病院の上司は警備員を入れるのはやりすぎだと同僚を諌めます。かと言ってルシーの判断を全面的に認めているわけではなさそうです。
という状態が続き、その間とにかくルシーは忙しく動き回り、とてもアダムにつきっきりになるわけにはいかないような描き方がされます。そして事件が起きます。レベッカがアダムを連れて病室を抜け出します。このシーンもわざわざルシーに目を離させるドラマ展開にしていますので、オイ、オイとは思いますが、とにかくルシーが追い掛け、レベッカはアダムを抱いたまま階段から転げ落ちます。
二人とも緊急検査となり、幸いアダムに怪我はなくレベッカも軽症で済みます。行政の担当者も駆けつけ対応策が検討されます。上司はルシーに帰って休めの指示をし、ルシーも一旦は着替えますが、再びナース服を身につけて駆けつけ、もう一度チャンスをと願い出ます。
そして、すでに書きましたアダムの「ママといたい、でも死ぬのはイヤだ」の言葉があり、レベッカも素直に従います。その後ルシーはレベッカを送るといって車に乗せ、支援施設に向かいます。レベッカは一旦は拒否して車を降りますが、その後あっさり同意して映画は終わります。
感想、考察:ローラ・ワンデル監督のポジショニングが間違っている
映画は、レベッカが自ら持ってきたものを食べさせたり、病院食を捨てたり、また逃げ出せるようにドラマをつくっています。ルシーにはアダムのもとに立ち会えないよう忙しく動き回らせています。ローラ・ワンデル監督へのインタビュー記事を読みますとその理由に看護師の過重労働があると語っています。
この映画の問題はこの点ですね。
ルシーは看護師長であり看護師としてもベテランです。当然看護師の持つべき客観性と過剰介入の問題点は理解し実践できてきていると考えられます。それがなぜアダムのケースで崩れたのかが描かれないままにある種情緒的なものからであるかのように過剰介入の過ちを犯させています。さらにそのドラマづくりのために過重労働という社会問題を利用しています。そして最後にはルシーの判断を正当化しています。
なぜ母親との共依存状態にある4歳児が突然「死」を感じて母親と離れることを受け入れられるのか、また、なぜ母親はこれまで通り「ママがいるから大丈夫」と4歳児を抱きしめて離れることを拒絶しないのか、この問いに対する答えを聞きたいですね。
もし、過重労働のためにルシーがアダムのもとに残れないとするのならそのこと自体を問題にした映画にすべきですし、できないことをやろうとしたルシーの判断を問う映画にすべきです。
こうした社会問題に対する映画づくりのポジショニングが間違っています。