思春期の憂鬱をひとことで表す言葉はない
全編集中して観られる映画でした。それに映画のつくりのセンスがいいです。原題は主人公の少年の名前の「ENZO」ですが、邦題では「君の見る世界をなぞる」と、「君の名前で僕を呼んで」を思わせるようなタイトルにしています。この映画、単にセクシュアリティをテーマにした映画とみないほうがいいと思います。

ネタバレあらすじ
演技未経験の主演が持つ現実感
映画の内容を大雑把に言えば、16歳の少年エンゾ(エロワ・ポユ)の思春期特有の苦悩と葛藤を追っている映画です。特にこれといったドラマ(劇的なといった意味…)があるわけではありません。
この映画の良さは、まず第一にエンゾを演じるエロワ・ポユさんとウクライナ人のヴラドを演じるマクシム・スリヴィンスキーさん二人の現実感ある存在です。どちらも演技経験はないとのことで、ポユさんは競泳の選手であり、母親から水泳が得意な人を探していると教えられ、兄とともにオーディションを受けたと語っています。スリヴィンスキーさんは、オーディション時、実際に建築業の労働者だったらしく、ロバン・カンピオ監督はその目に強い生命力を感じたとのことです。
主要な二人のキャスティングに非俳優を選んでいるのは、この映画のそもそもの企画者であるローラン・カンテ監督の意向だと思われます。ローラン・カンテ監督は2008年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した「パリ20区、僕たちのクラス The Class」でも、演技経験のない14、5歳の子どもたちによって移民や労働者階級の多いパリ20区の教育現場を描いています。ドキュメンタリーではなくドラマ作品です。
そのローラン・カンテ監督は2024年4月、この映画の企画制作中に癌で亡くなっています。その意志をついで撮り上げたのがロバン・カンピオ監督です。映画冒頭のクレジットに「ローラン・カンテ監督作品」に続いて「ロバン・カンピオ監督作品」と表示されているのはそのためです。
リアリズムとロマンティシズム
ロバン・カンピオ監督は脚本家としてのキャリアの豊富な方で「パリ20区、僕たちのクラス The Class」でも脚本として加わっています。監督としては2017年に「BPM ビート・パー・ミニット」でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞しています。
この映画は「1990年初頭の「ACT UP – Paris」というエイズ(を可視化する?)活動家団体のメンバーたちの様々なドラマ(人間模様)」(BPM ビート・パー・ミニット)を描いており自身の体験によるものだそうです。
エンゾのセクシュアリティに関してはロバン・カンピオ監督の意向が現れているのかも知れません(想像です…)。
セクシュアリティをテーマにした映画はエモーショナルな映画になる傾向があり、「BPM ビート・パー・ミニット」もそうなんですが、この「君の見る世界をなぞる」は随分抑制的につくられています。
それもこの映画の良さであり、センスがいいとはこのことです。エンゾとヴラドが現実的な存在に感じられてとてもいいと書きましたが、実は映画自体はリアリズムというわけではなく、むしろシンプルではあってもかなり様式化されており、どちらかといいますとロマンティシズムを強く感じさせます。
リアリズムとロマンティシズム、この微妙なバランスの良さが映画の良さにつながっており、それはローラン・カンテ監督とロバン・カンピオ監督のコラボレーションによって生まれたものじゃないかと思います。
ブルジョワの息子が左官職人?
この映画、映画の導入がうまいんです。
オープニングクレジットにシャシャという左官の作業音と蝉(らしい…)の鳴き声が静かに入ってきます。やがて数人の職人たちの働く姿が映し出され、そのひとりエンゾ(エロワ・ポユ)の無気力に動く姿にフォーカスされます。ヴラド(マクシム・スリヴィンスキー)がのろのろするな、こうやるんだと叱りつけています。親方が発注主を連れてやってきます。発注主はエンゾの作業を見てレンガ積みが歪んでいると指摘します。その場を取り繕って発注主を帰した親方はエンゾを怒鳴りつけ、もう帰れ、送っていくから車に乗れと言い、エンゾの家に向かいます。親に役に立たないからクビだと言うつもりなんでしょう。
映画のロケーションは南仏です。日本人の感覚もあるのかと思いますが、シーンの空気がリゾートのようでここまでの労働シーンにものんびり感が漂っています。ロケ地は南仏のラ・シオタ La Ciotat だそうです。
ググってみれば完全にリゾート地でした(笑)。エンゾの家にいってみれば、そこはプール付きの豪邸であり、親方の目に映るのは両親がプールサイドでくつろぐ姿というシーンが続くのです。
親方も映画を観ている私と同じようにぽかーんです(笑)。親方はやや恐縮気味に事情を話します。父親(ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ)、母親(エロディ・ブシェーズ)ともに丁寧な対応ですし、エンゾの考えを尊重している風であり、知的な人物に演出してあります。
実に様式的です。ブルジョワ、知的職業、奢ったところを見せない人たち、映画はエンゾが労働者たちとは対照的なブルジョワジーの一員であることを見せています。
親方との話の中でエンゾが不登校であることがわかり、両親は自分たちと同じ道を歩むことを望んでいるが強制はしないという態度を見せています。それに対してエンゾは今の仕事が好きだし続けたいと言い、頑張る(違う字幕だった…)と言っています。
エンゾは自分が属している階級に居心地の悪さを感じており、労働者とともにいることでそれがいくらか解消されると感じているのでしょう。この後何シーンかある労働者たちとのランチタイムや休憩時間のエンゾの表情にはそれが現れています。
エンゾの憂鬱
エンゾの家族は、大学教授の父親にエンジニアの母親、そして両親の望み通りに育っている兄です。兄は映画の後半にアンリ4世校に合格したということで友人たちを呼んだパーティーが開かれていました。ということは18歳ということなんでしょうか。フランスのグランゼコール(エリート養成機関)はよくわかりませんので間違っているかも知れません。
エンゾはそうしたブルジョワ的環境を避けるように肉体労働の世界に自分の居場所を見つけようとします。そのきっかけとなるのがウクライナ人のヴラドです。ヴラドはもうひとりのウクライナ人とともに戦火のウクライナから避難してきているようです。ヴラドたちは25歳になれば徴兵される(2024年4月に27歳から25歳に引き下げられている…)と話しています。ヴラドは国には戻らないと言い、友人は戻ると話しています。どちらも気持ちが揺れているということです。
たとえ建築現場という労働の場であってもどことなく漂う長閑さに一気に現実感が押し寄せてきます。
エンゾは強い生命感を放つヴラドに一気にもやもや感が晴れるような感覚を感じたのではないかと思います。その後はエンゾがヴラドに惹きつけられていくシーンが多くなります。ヴラドに誘われクラブへ行きます。ただこれは年齢制限で入れてもらえません。この展開はやや奇妙ですのでコンプライアンス上のなにかがあるのか、あるいはさらにエンゾを苛つかせる意図なのかもしれません。
その帰り道、エンゾは何を思うか、崖の上で頭を海側にせり出すように横たわります。そのまま夜を過ごしたのでしょう、明け方家に戻りますと父親がソファーに寝ています。どこへ行っていたと咎める父親の気持ちを当たり前と言うなら、それを抑圧的に感じるエンゾもいたって普通です。話は噛み合いません。
このときエンゾはクラブへ行くためにヴラドにこれを着ていけと言われたシャツを着ているのですが、父親は似合っていないと素っ気なく言います。こういう細かいところでも階層の違いや父親の内面的なことをさらっと入れています。
エンゾが女生徒(同級生だったということか…)を両親はいないからと家に誘います。自室のベッドでどちらももう一歩先に進もかどうしようかのシーンがあり、エンゾが泳ごうと言い、プールでやっとキスができ、そうしたところへ母親が帰ってきます。女生徒は誰もいないと言ったのにと怒って帰ってしまいます。
エンゾのセクシュアリティを同性愛として描こうとしていない意図からのものでしょうか。とにかくもやもやする16歳です。
落下するエンゾ
ヴラドが休日の2日間に仕事を手伝わないかと言ってきます。ウクライナ人の友人はどこかへ行っているということだったと思います。引用の画像にあるプールサイドのタイル貼りです。
その夜のヴラドのアパートメントです。眠れないエンゾはヴラドのベッドへ行きそっとヴラドの胸を触ります。ヴラドも眠れなかったのでしょうか、やめろ、その気はない(そんな感じの字幕…)と強く言います。
エンゾは気持ちの行き場を失います。おそらくエンゾのその気持ちに名付ける言葉はないでしょう。
家に戻ったエンゾは兄がアンリ4世校に合格したことを知ります。パーティーです。エンゾは酒をがぶ飲みし、踊り始め、上半身裸になり、その場にいた女性を後ろから抱きしめ自暴自棄的に踊り狂います。兄が止めに入り、その後、父親が連れ出し、やや暴力的に投げ飛ばします。父親はなぜ自分を傷つける!と怒り、どこへ行っていたと問いただしますと、エンゾは同僚のところに泊まった、やったと言い放ちます。父親は驚き、お前は未成年だぞと興奮し、相手を訴えると言わんばかりです。母親が間に入り、エンゾをなだめます。エンゾは何もやっていないと首を横に振ります。
後日の建築現場、エンゾが2階の屋上から作業用のシートを下ろしています。それを地上から見上げるヴラド、その時エンゾが屋上の縁に立ち後ろ向きのまま倒れ込みます。地上に落下するエンゾです。この時、何があったと尋ねられたヴラドは何も見ていないと答えます。ヴラドは何を考えたんでしょう。興味深いですね。
幸いにして腕の骨折だけで済んだエンゾの入院シーンがあり、そしてかなりのしばらく後、エンゾは家族とともにイタリアの古代遺跡に来ています。映画の早い段階に母親が今年の休暇はイタリア旅行とかの振りがありました。
エンゾのスマホに電話が入ります。ヴラドです。どこ?と尋ねるエンゾにヴラドは「ヘルソン」と答えます。ロシアウクライナ戦争の最前線です。訥々とした会話があり、どうしてる?と尋ねるヴラドにエンゾは1年間ニューヨークに行くことになったと答えます。
突然、ヴラドが震える声で、聞こえたか!と言います。聞こえなかったと答えるエンゾのその後に微かに爆発音、通話は途切れます。
感想、考察:思春期の憂鬱をひとことで表す言葉はない
16歳のエンゾの憂鬱がなんであるかは誰にもわかりません。セクシュアリティかも知れませんし、裕福な生活への引け目かも知れませんし、世の中の不条理さを感じているのかも知れませんし、思春期特有の精神的アンバランスからのものかも知れません。
そうした言葉にできない苦悩や葛藤を経験をせずに大人になっていく人もたくさんいるわけで、それがゆえにとてもわかりにくい憂鬱さですが、この映画のエンゾにはその分かりにくさがそのまま現実感ももって表現されています。
それが全編集中して観られる理由だと思います。
エンゾがヴラドに惹かれる気持ちはセクシュアリティというよりも、それまで知らなかった世界が眼の前に広がるような感覚ではないかと思います。象徴的な言い方をすれば初めて出会う生きた人間ということです。ちょっと書きすぎました(笑)。