四月の余白

𠮷田恵輔監督、相変わらずうまいんですが人物に余白がないかな

𠮷田恵輔(吉田恵輔)監督、相変わらずうまいですね。「ヒメアノ~ル」からすべて観てきていますが、どの映画のレビューでも1度や2度は必ずうまいなあと書いていると思います。でもあまり好きなれないんですよね(ゴメン…)。理由は最後に書きますが、描いていることに対する監督本人の立ち位置ですかね。

四月の余白 / 監督:𠮷田恵輔

ネタバレあらすじ

体罰許容の価値観

映画の軸となっているのは、暴力でしか自己表現できない子どもを変えることはできるか、また変えることができるとして、それは対話によってか、あるいは暴力をも許容したしつけによってかということかと思います。

西(一ノ瀬ワタル)は、社会からドロップアウトした少年少女の更生施設「みらいの里」を運営(経営かも…)しています。施設は全寮制であり、現在10人くらいの少年少女が入所しています。大人は西の他に男性一人女性一人です。教育や心理面の専門家はいません。

西自身、いわゆる不良少年からヤクザ(半グレかも…)の道に入り服役したこともある人物で、誰もが自分と同じように変わることができると信じています(多分…)。もう一人の男性は窃盗で服役したことがあると言っています。女性は寮の賄い担当のようで特に人物説明はありません。

入所者たちの寮での生活は農作業のシーンと皆で机に向かうシーンがあるのみです。教師はいませんので女性が算数を教えていました。

現実にはこの人員での運営は難しいとは思いますが、映画としては人と人が真正面からぶつかりあえばわかり合えるといった価値観を描いており、実際、西は子どもたちが言うことを聞かなければ即暴力ですし、子どもたちが求めれば強く抱きしめたりします。

描かれない対話の価値観

中学校教師草野(夏帆)はクラスの生徒海斗(上坂隼人)の対応に頭を悩ませています。映画では他の生徒に直接打ち上げ花火を向けて火傷をさせるシーンがあり、暴力行為が収まらない生徒という設定です。

草野は西のセミナー(のようなもの…)に参加して海斗のことを相談します(具体的なシーンはない…)。そしてある夜、海斗の暴力行為の連絡を受けた草野は西に助けを求めます。駆けつけた西はいきなり海斗を暴力で押さえつけます。そして後日、海斗は母親の了解のもと西の施設に入所することになります。

この後も草野はわりと頻繁に登場しますし、いらだちで自分の髪の毛を無意識に引きちぎるシーンが3回ほどあります。ただ、あらためて思い返してみますと苦悩しているシーンはあっても何かをするシーン、たとえば海斗に対話を試みるシーンはありません。

この草野の役割は善良な教師の立場を代表していると考えられ、おそらく過去にはいろいろ対話を試みたけれどももう限界ということであり、ある種現在の教育現場を外側から見ている者の想像の教師像と思われます。同じ意味合いで、事なかれ主義の上司(教頭かな…)や自己保身で立場を変える同僚を登場させています。

最初にこの映画の軸として対話か暴力かの問題があると書きましたが、実はこの映画には対話を試みる人物は登場しておらず、すでにもう対話では無理というところが出発点となっています。海斗の母親(占部房子)もそのひとりで、海斗が怖い、もう無理と言っています。ただ、ワンシーン、それでも我が子が愛おしいという意味合いなんでしょう、寝ている海斗の髪を触るシーンが入っています。

𠮷田恵輔監督はロマンチストなんですかね。母親への幻想じゃないかと思いますけど。

人の痛みを自分のものと感じられるか

という設定の中で果たして海斗は変わることができるのか、西は海斗を変えることができるのかということになります。

結論から言えば、かすかな可能性をみせるという無難な終え方をしています。その経緯を簡単に書きますと、みらいの里でも海斗の反抗的な態度は変わらず、他の入居者と反目し合ったりの行為が続き、ある時入所者のひとり詩(山﨑七海)を護岸堤防から蹴り落として大怪我をさせます。その後施設を逃げ出し、傷害事件を起こして少年鑑別所に入ることになります。

出所後、この時すでにみらいの里は閉所されており(後述…)、またつるんでいた同級生も離れていき、結局半グレのパシリとなります。その半グレたちは以前西にやられたことがあるからと復讐計画を立て、海斗もつきあわされて西を鉄パイプで何度も殴りつけます。しかし、その西が後日やってきて誕生日プレゼントを置いていきます。海斗が素直になることはありませんが、それでもしばらくして西の後を追いかけます。追いつくことはありません。

これがこの映画のひとつの答えとなっています。ただ、これはあくまでもこれが映画であることからの答えであり、一方では、あるいはこれが映画の本音かもしれませんが人は変われないんじゃないかとも言っています。

西と草野が少年鑑別所の海斗に面会するシーンです。草野が言います。
「自分がやられて嫌なことをなんでするの!」
「え、嫌なこと?」
「人の痛みはわかるでしょ!」
「先生、人は痛くてもオレはちっとも痛くないんだけど」

海斗は相手の痛みなど感じられないと言っています。これ、ある意味真実ですし、人間存在の本質的なことじゃないかと思います。ただ、我々ほとんどの人間はそれを知性や想像力で補っているわけで、さらに、仮に相手を暴力であれ言葉であれ傷つけてしまっても後悔という心理的反作用が生じます。

じゃあ、人は後悔することで変われるかということになります。

なんだか映画の話じゃなくなってきました(笑)。

人は後悔することで変われるか

後悔で変わった人物が西です。ところが映画は、西が変わる契機となったのは後悔ではあっても人を傷つけたことそのものへの後悔じゃないと言っています。

西は海斗の家を訪ねたときに海斗の父親に会います。その父親は西がとてつもないワルだった頃、西に暴行されて片足に障害が残り自由が利かなくなったと言います。父親は長年の積もり積もったその恨みを西にぶつけます。しかし西は覚えていないのです。

もちろん西が傷つけた人物は数知れないと思われますので、全体として暴力行為を後悔したと考えることもできますが、これは映画ですのでその意図があればこんなシーンは入れません。それに現在の西が暴力行為を後悔しているとは思えませんし、むしろ暴力礼賛者です。半グレに相対するときでも自分が殴り合いに強いとの自信があるからの行為です。

じゃあ、西は何に対して後悔したんでしょう。

自分が傷つかなければ人は変われない

この映画、あれこれいろんなものを盛り込みすぎてテーマ自体が見えにくくなっています。意図してのことと考えられなくもありませんが、そんなことは監督に聞かなくちゃわからないことですので置くとして、メディアを登場させているのもそのひとつです。その中に置き去りになっていることがあるんです。

みらいの里がテレビで取り上げられて注目され、あれこれ取材も舞い込み、セミナーも盛況になります。しかしその後、西の過去が暴かれて炎上し、施設も続けられなくなり一時閉鎖することになります。

西はインタビューに応じて自身の過去を語ります。刑務所に入っているときに当時付き合っていいた女性との間に子どもが生まれて無茶苦茶うれしかった、でもその女性と子どもは交通事故で亡くなり、自分は子どもの顔も見ていないと言います。それがきっかけで更生できたと言います(はっきりした記憶がないので私がつくっているかもしれない…)。

後日、別の週刊誌の取材を受けます。その記者は事故で亡くなったという女性の名前を調べても存在していた形跡はなく、またその頃に話の内容に合致する事故はなかったと言い、さらにその名前の女性はあなたがレイプした女性だと西に迫ります。西は何も答えません。

ところがです。その後その週刊誌の記者がさらに西の過去を調べるために西の知り合いだったという人物を取材したところ、西が話した女性と子どもの話は本当だというのです。西が話した名前は源氏名であり、本名は韓国名で、事故も韓国に帰っていたときに起きたことだと言います。

この話、そのまま置き去りです。それだけにかえってこれが西が更生できたきっかけだと言っているようにも見えます。

人は自分が傷つかなければ変わらないということかも知れません。

海斗が変わるかも知れないと見えるのも、西の変わらぬ態度にほだされたというよりも、孤独を感じ始めたことじゃないかと思います。ただこれが現実の話ならあの空虚さにはワルへの魔の手が忍び込んでくるんじゃないかとは思います。

あれこれいろんなことのもう一つ、傷つけられた方は変われるかの問題意識も取り入れています。

海斗の父と海斗が少年鑑別所に入ることになった障害事件の被害者の話です。ラスト近く、父親は相手に対して謝罪するも、父親自身がそうであったように相手は恨みつらみをぶつけてくるばかりです。父親はどんなに恨みつらみを相手にぶつけても恨みは消えない、自分をダメにしていくだけだと言っています。

同じ立場同士なら通じる話かも知れません。

感想、考察:𠮷田恵輔監督はエンタメ作家

映画への感想や考察はすでにあれこれ書いてしまいましたので最後にひとつだけです。

𠮷田恵輔監督は人の悪意や憎悪というものを描くことが多く、そしてうまい監督です。そしてまた、最後はやや上から目線でどっちもどっちといった感じで終えることが多いです。

有能なエンタメ作家ということになります。

ところがこの映画には悪意というもの存在していません。憎悪という意味では海斗の父親にはありますがそれが映画を動かしているわけではありません。海斗の暴力は悪意や憎悪が原動力となっているわけではありませんし、ましてや西や草野に悪意を見出すことは出来ません。

悪意のある人物造形がうまい監督なのにこの映画にはそうした人物がいません。あれこれいろんなものを盛り込んでいるのはそれを補うためかも知れません。

どんどん余計な話になってきており、それは最初に𠮷田恵輔監督はうまい映画監督だけれども映画はあまり好きじゃないことを書こうとしているからでそれがだんだん見えなくなってきてしまったということです。書こうとしていたのは上から目線を感じるということなんですがこの映画では説明できなくなってしまいました。

以上です(笑)。