恒星の向こう側

人は決して手に入ることのない「恒星の向こう側」にあるような愛を求めるもの

中川龍太郎監督は詩人でもある(現在書いているかどうかはわからない…)という視点から観れば腑に落ちる映画ではあります。「詩」はある1行だけででも泣けるものであり、この「恒星の向こう側」もそういう映画かと思います。

恒星の向こう側 / 監督:中川龍太郎

映画の構造が複雑すぎる

映画の構造がわからないと置いてけぼりを食うかもしれません。

時代は1986年(違っているかも…)から2024年の間、場所は東京、奈良、そして北海道の野付半島(対岸が国後島…)、登場人物は同じ人物の若い頃と今といった具合で、それらが特に説明もなく交錯して描かれています。基本は一対一の人間関係を描いているのですが、それも重層的ですのでかなり複雑にみえます。

映画の軸となっているのは30歳くらいの未知(福地桃子)と母親可那子(河瀬直美)の2024年の母娘関係ですが、映画のトーンを作っているのは高校生(くらい…)の可那子(南沙良)とピアノ教師(と思われる…)万理(朝倉あき)の1986年から始まる40年におよぶ叶わなかった愛であり、叶わなかったんですから悲恋ということになります。

そこに未知と夫の登志蔵(寛一郎)との関係があり、さらに登志蔵は舞台演出家であり、現在取り掛かっている舞台の出演者が過去の可那子役の南沙良さんと万理役の朝倉あきさんなんです。また、その題材も可那子と万理の関係をモチーフにしていると思われます。

まだあります。登志蔵のセクシュアリティまで可那子と万理の関係に重ね合わせるように同性愛指向を匂わせています。登志蔵は自らのセクシュアリティを偽って未知と結婚したということであり、登志蔵には恋愛性愛感情としての未知への愛はなく(わかならないけど…)、未知のお腹の子もその結果ではないということになります。

若い可那子(南沙良)が生まれた未知を抱いてこの子があなた(万理のこと…)との子であればと語る(誰の声かは記憶なし…)シーンがありました。可那子には夫(登場も説明もなし…)への愛はなく、生まれた未知もその結果ではないということになります。これが未知への拒絶感の理由のひとつとして描かれています。

というややこしい構造の映画です。私がこういうことかと分かったのは、1986年の可那子(南沙良)が河瀬直美さん演じる現在の可那子と同じイントネーション(奈良弁…)で話していることからです。

物語への導入が詩的じゃない

映画冒頭の2、3シーン、まず万理と子どものシーンがあったようななかったような(記憶が曖昧…)、続いて登志蔵(寛一郎)の演出する舞台のオーディション(かな…)のシーンも唐突であり、かなり映画に入りにくい始まりでした。登志蔵はなぜ遅れて入ってくるの? そんな演出必要ある? と思いますけどね。何かがカットされているのかもしれません。

続いて、児童養護施設で働く未知(福地桃子)のシーンがあります。ひとりの子どもが屋根に上って暴れています。未知と所長(三浦貴大)が地上からやめなさい! と言っています。するとひとりの女性職員(久保史緒里)が屋根に上り子どもを抱きしめて止めようとします。

収拾がついた後、未知はその職員に子どもとの距離感の話をし注意します。職員はあの子は信頼できる人を求めているんです(こんな感じ…)と言い、つまり未知は自立のためには一定程度の距離を置く必要があると言い、職員は身体接触も含めて愛が必要だと言っているわけです。

その後、職員は考え方が違うので辞めますと言って辞め、未知には奈良から母親が道で倒れたと連絡が入り、施設での仕事を辞めて奈良に帰ります。

施設のシーンはここだけです。この後この3つの関連シーンが交錯して描かれていくことになり、その割にはとてもバランスの悪い導入だと思います。特に児童養護施設のシーンは現実感が強く、映画全体のテーマがはっきりと現れていますのでこの後何もなしということには違和感があります。

ここのシーンでは所長が施設では頭を撫でることも禁止していると言っており、後に1986年のシーンで万理が可那子の頭を撫で、可那子が「気持ち悪い」と返し(言葉通りではない…)、終盤では2024年の可那子と未知のふれあいが大きな意味を持っています。

「恒星の向こう側」の愛

この映画には説明的なシーンが一切ありません。

奈良に帰った未知は可那子から「なんで、来たん」「親子でも他人やで」と言われてしまいます。それでも未知は母親のそばにいる決心をして奈良に戻ってきます。医師から可那子が2年前に乳がんの手術をしており、今それが転移して治療しなければ先は短いと聞かされたからです。

その後も可那子の未知への拒絶シーンは続き、映画前半の可那子はこのまま変わりません。なぜ可那子はそこまで未知を突き放すのかがこの映画の最大の疑問であり、それゆえそれがテーマということになります。

すでに書いていますが、理由は40年におよぶ悲恋であり、可那子にとって未知はその象徴に見えているからです(本当か(笑)…)。詩的に言えば、人は決して手に入ることのない「恒星の向こう側」にある愛を求めるものであり、その不条理ゆえに苦しむということです。

可那子は高校生の頃(だと思う…)に慕っていたピアノ教師万理を愛しており、おそらく万理もそれに応えていたのでしょう。万理には子どもが(おそらく何らかの障害がある…)います。それが関係あるのかはわかりませんが北海道の野付半島に行くことになります。

可那子はその後を追いたくても追えなかったのでしょう。その心の傷を40年間抱えたまま、その思いをカセットテープに録音し万理に送り続けています。野付半島の日の出時間がラジオから流れるシーンが何度かあり、とても詩的に感じます。その後可那子は望まぬ結婚をし、未知を出産するも愛することができずに育ててきたということです。

そして映画後半、可那子の未知への拒絶感が突然なくなります。その訳を映画は描いていません。病の進行がそうさせたのかもしれませんし、単に詩的処理ということかもしれません。

可那子と未知と登志蔵が奈良の山(若草山か…)にピクニックに行き、可那子と未知が夕陽を見るシーンは美しいです。きっとそのとき可那子には40年間の思いがそれこそ走馬灯のように駆け巡っていたんだと思います。夕陽を浴びて涙を流す(流れてはいなかったけど…)可那子です。そして可那子は未知におんぶさせてと言い、大きくなったなあ(重くなったなあ…)と言い、逆に40年間の心の重荷をおろしたのかもしれません。20数年ぶりかの身体のふれあいでしょう。

その後、登志蔵の舞台公演のシーンがあります。この一連のシークエンスは掴みどころがなくあまり効果的じゃないです。そして登志蔵は他に好きな人がいると告白して去っていきます。

ラストシーン、未知は野付半島の万理(中尾幸世)を訪ねます。そして、可那子が亡くなったことを伝え、最後のカセットテープを渡します。万理が大きな箱を取り出しふたを開けますとそこにはたくさんのカセットテープが入っています。カセットプレイヤーを取り出しスタートさせます。

2024年何月何日、どこどこ(野付半島付近…)は何時、どこどこは何時、日の出時間のお知らせでした、と流れます(だったように思う…)。

感想:詩的な映画は難しい

愛する人が暮らす場所の地図を見たりするというのは割と多くの人がやるんじゃないかと思います。それをラジオから流れる日の出時間で表現するなんて実に詩的じゃないですか。小型のラジオから流れるちょっとこもって、ちょっとざらついて、それでも明るく響くアナウンサーの声、ノスタルジーを感じますし、プライベートな感じがして北海道の日の出時間でもとても近いことのように感じられます。

中川龍太郎監督の過去の映画にラジオから流れる音が効果的に使われている映画があります。

そのシーンでは思わず、おっ、となりました。主演は朝倉あきさんで相手役は三浦貴大さんでした。

そう言えば一年ほど前に観た福地桃子さんと寛一郎さん共演の竹馬靖具監督の「そこにきみはいて」は中川龍太郎さんの原案となっていました。製作年のずれもありますのでなんとも言えませんが何らかの関連はあるでしょう。その映画には中川龍太郎さんが重要な役で出演もしていました。重要な役という意味ではこの映画の河瀬直美さんがそうですし、河瀬直美監督の「たしかにあった幻」には中川龍太郎さんが出ていたりとお仲間みたいな感じがあるんでしょうか。

話がそれました。この映画、詩的な映画という捉え方でいけば割と成功している映画だとは思います。詩も映画も説明的なものはつまらなくなるというのは同じで、中川龍太郎監督の映画にはそれがありません。ただ映画の場合は基本映像主体の物語表現ですので一定程度の説明と言いますか、映像の関連性というものを示しませんと観るものがついていけなくなります。言葉は読む者の頭の中に映像を呼び覚ましますし、その場で何度も反芻してイメージを増幅させることが出来ます。映画はなかなかそういうわけにはいきません。目の前にある映像からさらなるイメージをふくらませるのはかなり難しいです。

最初にこの映画はこういう映画だよと説明なく伝えることの難しさですね。やはりこの映画は導入に問題ありかと思います。

話は変わりますが、映画の中の野付半島のシーンは実際の野付半島なんでしょうか。重要な画ですからそりゃそうですよね。