もしもの愛

連帯なき現代に労働者階級は存在しうるのか

イ・チャンドン監督、「バーニング劇場版」以來8年ぶりの新作です。Netflix での配信に先駆けて10月23日から劇場公開されているのですが、これは劇場で観ておいたほうがいいです。小説で言えば純文学のような映画ですので、集中して観られる環境じゃないとおもしろさが伝わらないでしょう。

もしもの愛 / イ・チャンドン

ネタバレあらすじ

映画の中に答えはありません。エンターテインメント映画のように(一概には言えないけど…)観終えて、ああ、そういうことかなどと納得できるような映画でもありません。

ふた組の夫婦、4人の男女がたまたま出会い、相手に興味を持ち、あるいは関わられたくないと思い、それぞれなにがしか変化していく、ただそれだけの映画です。いや、変化していないのかも知れません。

164分、2時間44分ですので長尺と言えますがまったく飽きることはありません。それがイ・チャンドン監督の凄さということです。無駄なカットもなく、ん? と時々入る気になるカットがむしろ物語を進める力になっています。そして、なにか起きそうな緊迫感が生み出されます。

思いのほかスリリングな映画なんです。

階級社会の越えられない壁

この映画には「階級社会」という概念がベースにあります。物語に労働者の集団的解雇や労働争議が関わっているというだけではなく、ミオク(チョン・ドヨン)夫婦は労働者階級の、そしてイェジ(チョ・ヨジョン)夫婦は資本家階級の価値観を持つものとして描かれています。

ミオクは自らが労働者であることを自覚し、その上でイェジと対等な人間関係を築けると考えています。考えているというよりも元々フレンドリーな性格の人物といったほうがいいかも知れません。イェジの高価な持ち物を見ても妬んだり嫉妬したりしませんし、逆にイェジの高価な服装が労働者を取材する場にふさわしくないと指摘したりします。

それに対してイェジは気分を害することもなく素直に従い、次からはTシャツで来るようになります。ミオク夫婦を食事や別荘に誘ったりする行為にも尊大さは感じられません。ただ、それらは自分が資本家階級に属していることに無自覚であるに過ぎず、それはミオクたちへの取材対応にはっきりと現れています。

このイェジの階級というものへの無自覚な善良さが最後にミオクとホソク(ソル・ギョング)への残酷さとして現れるのがこの映画です。イェジはいい画が撮れたと思っているだけでしょう。

そしてラスト、ミオクとホソクはあらためて越えられない階級という壁を実感するのです。

ゆるくなった結婚指輪

映画は SP重工業を解雇されて自ら命を断った労働者の葬儀から始まります。この冒頭のシーンがちょっとわかりにくいです。ホソクは一貫して不機嫌にみえます。それが実は不機嫌ではないことが分かるのは中盤以降ですので、この前半のホソクのおさまりがあまりよくありません。どういう立ち位置にいるのかはっきりしない存在に見えるということです。

こういうことでした。ホソクがミオクに葬儀場に入らず車で待っていると言ったのは同僚の死を受け入れられないことや自分自身の鬱屈した思いからで、それでもなんとか気持ちを奮い立たせて遺影の前に立ち礼拝したということです。

その後ホソクが飲み始めたものですからミオクと口論になり、そのとき労働者たちのドキュメンタリーを撮ろうとしていたイェジの目にとまって映画の物語が始まることになります。口論の激しさもどういうことなのかよく分からなかったんですが、ホソクがアルコール依存気味のため外では飲まないと言っていたにもかかわらず飲み始めたからということです。

このときミオクはイェジの夫サンウ(チョ・インソン)とも出会うわけですが、そのきっかけに結婚指輪がゆるくなって指から落ちてしまうことが使われています。これはミオクの現在を象徴的に表現していると思われます。ホソクの解雇による現実的な経済環境の変化や心理的な苦労によって痩せたということでしょうし、この後ときどき挿入されるミオクのサンウへの好意をにおわせるシーンが映画的な緊張感を生み出しています。

そして、ふた組の夫婦の交流が始まります。

彼らを愛そうとしているの

イェジは積極的にミオクに映画出演を持ちかけます。ただ、それは単にミオク夫婦を自らの映画の題材とみているだけで労働問題が社会問題であるとの意識はありません。実際イェジのインタビューはミオクの幼い頃の記憶であったり夫婦の出会いであったりとプライベートなことに集中しています。イェジはサンウに撮りたい本命はホソクだと言っています。後の二人の会話では、サンウがイェジののめり込みを「メソッド演技」のようだと皮肉ることに対して、イェジは「私は彼らを愛そうとしているの」と言っています。

この前半では夫二人はやや後景に置かれています。サンウは父親からの資産を受け継いでいる典型的な資本家です。乗っている車(ポルシェだったと思う…)でもミオク夫婦とは明確に階級を意識させるものなっています。ときに入る電話ではアメリカ人とのプロジェクトが進行していると言い、映画終盤に語られる SP重工業の買収はこのプロジェクトのことだと思われます。

映画中盤、ミオクがインタビューに答えることで SP重工業の集団的解雇の経緯が語られます。

およそ2年前、ホソクが溶接工のリーダー格として働いていた SP重工業が大規模な人員削減を発表します。労働組合はストライキを決行し、ホソクたち解雇されたものは工場内にバリケードを築き、テントを張って籠城します。当事者だけではなく家族みんながストライキに加わっています。当初は解雇されなかった労働者もストライキに参加し「連帯」を示してくれていたと語ります。そしてある日突然、警察権力が介入して暴力的にストライキは破られます。

その中にホソクもいるわけですが、ホソクの苦悩が明らかにされるのは映画最終盤になってからです。

なお、この労働争議の描写は2009年にあった「双龍自動車事件」をモデルにしているとのことです。

別荘の使用人とチョルと笛

イェジはミオクを別荘での休暇に誘います。目的はホソクのインタビューを撮ることです。

ホソクがイェジの撮影をどう感じているのかははっきりしていません。私がホソクの立場なら断固拒否して、ミオクにもやめるよう説得します(余計なこと(笑)…)。このホソクの曖昧さは演出がうまくいっていないだけだとは思いますが、あえて言えば、鬱屈する思いをどこかで吐き出したいと思っていると考えるのが一番自然かと思います。それがもう少しメリハリよく演出されていればよかったんじゃないかと思います。

別荘行きの前、ホソクが常々ミオクから勧められていたセラピーを思い切って受けるシーンがあります。グループセラピーです。同じような他の人の体験を聞くホソクの顔は幾分緩んでいるようにもみえましたが、もし話せるならと振られますと、迷いながらも話そうとするも、やはりよほどつらい思いがあるのでしょう、耐えられなくその場を逃げ出します。

そして別荘での4人(とミオクの息子チョル…)です。

別荘はサンウのもので、プライベートビーチがあり、日々使用人が面倒を見ています。サンウはこの使用人とは幼い頃から友だちのように過ごしてきたと言います。サンウは部屋を案内し、子どもの頃からの思い出の品が置かれた中から笛を取り上げて吹きます。ミオクの息子チョルにも吹いてみるかと渡します。チョルが吹きますと、窓の外から使用人が笑顔を向けています。サンウは気にする様子もなく、用があるときに笛を吹くとすぐに駆けつけてくれるんだと言ってのけます。

無自覚ゆえに、より冷酷非情です。

スリリングな終幕へ

そして、スリリングな別荘での4人です。以下、記憶が曖昧な部分があり混乱しているかも知れません。

ホソクがインタビューを受けると言います。ミオクに席を外すように言います。サンウがミオクを散歩に誘います。森の中で鳥が鳴きます。なにか話そうとするミオクにサンウはしーというように口に手を当てて遮ります。すると鳥がそれに応えるようにさらにはっきりと鳴きます。ミオクはこの瞬間を一生忘れない(かなり違うと思うけどこんな感じ…)と感動しています。そして、浜辺へ行き、サンウは幼い頃はここで素っ裸で泳いでいたと思い出を語ります。

ホソクのインタビューシーンは2回に分かれていたように思いますが集中して観すぎていたために記憶ではひとつにくっついてしまっています(笑)。実は1回だったのかも知れません。とにかくまずは集団的解雇の経緯が語られていたんじゃないかと思います。

その夜、ふと目を覚ましたミオクはホソクがいないことに気づき、外に出て森の中に入っていきます。そこでミオクはホソクが半狂乱で木々に当たり散らしている姿を見ます。さらに何か気配を感じたんでしょう、振り返ったミオクは自分にカメラを向けているイェジの姿を目にするのです。

怖っ。

そして翌日でしょうか、再びインタビューです。ミオクは自ら海辺にでていきます。後に続くサンウ。遠くを見つめるミオク、突然衣服を脱ぎ始めます。すべてを脱ぎ捨てて海の中に入っていきます。晴れ晴れとしたミオクです(と見える…)。誘われていると思ったのでしょう、サンウも素っ裸で海に入ってきます。ミオクをつかまえようとするサンウ、しかしミオクはそれをかわします。そうしたやり取りが幾度か繰り返され、ミオクは浜辺に上がり衣服を抱いて後ずさり、そして逃げていきます。

その頃ホソクは、ストライキが警察権力によって暴力的に破られ、自らも警官に追われ、暴行され、そして逮捕されたことを絞り出すように語っています。そして、そのとき目にし、今も目に焼き付いて離れない情景を言葉をつまらせながらも吐き出すのです。

仲間たちが自分を見捨てて去っていったと。

ホソクの感情が次第に高まり、パニックで過呼吸状態になります。戻ってきたミオクがホソクを抱きかかえ、ゆっくり吐いてと落ち着かせようとしています。

ミオクとホソク、そしてチョルはサンウの別荘を去っていきます。車の中でチョルが持ってきた(わざと?…)笛を吹きます。使用人のカットが入ります。あたかも笛が聞こえたかのように。あるいはもう笛が吹かれることがないことを示すかのように。

感想、考察:消された労働者階級

そしてラストシーン、家に戻ったミオクとホソクは、深夜、ホソクが労働者仲間とバーベキューをしようと作った庭のテーブルで月を見ながらお酒を交わすのです。

その時、サンウはイェジにやや暴力的にも見えるセックスをしています。

イェジから無事に帰ったかとのメッセージが届きます。満月の写真を撮ったミオクは送ることをためらっています。

汝、貪るなかれ

Imdb にこんな記述があります。

The film was conceptualized as part of Maciej Musial’s project to remake all episodes of Dekalog (1989) into feature films, preceded by Asghar Farhadi’s Parallel Tales (2026). Although the film opens with “thou shalt not covet” and is dedicated to Krzysztof Kieślowski and Krzysztof Piesiewicz, Lee Chang-dong does not see it as an adaptation or direct reimagining of the episode.

この映画はマチェイ・ムシャウが「デカローグ(1989)」のすべてのエピソードを長編映画としてリメイクするとして立ち上げたプロジェクトの一環として構想されたもので、アスガー・ファルハディ監督の「Parallel Tales(2026)」に続くものです。映画は『汝、貪るなかれ』という言葉で始まり、クシシュトフ・キェシロフスキとクシシュトフ・ピエシェヴィチに捧げられていますが、イ・チャンドン監督はこの作品を原作の翻案や直接的な再解釈とは考えていません。

映画の最後に献辞が入っていたのはこのことですね。「デカローグ」というのは1989年から1990年にかけてポーランドで製作されたクシシュトフ・キェシロフスキ監督、クシシュトフ・ピエシェヴィッチ脚本のテレビドラマ・シリーズで、聖書の十戒をモチーフにしているそうです。

というイ・チャンドン監督の「もしもの愛 Possible Love」です。まだまだ書ききれないたくさんのエピソードがあり、それらがまったく無駄なく絡み合って重層的な物語を生み出しています。

ミオクが語る労働者であることを恥じる母親と虹の話、勤めるマスク工場で労働組合を立ち上げる話、ホソクの自信に満ちた過去と現在の対比、ホソクが参加したグループセラピーの参加者たちが語る悲喜交々、どのシーンも意味あるものとしてひとつの物語に絡み合っています。

ただ、どのシーンも明確な答えがあるわけではありません。小説であれ、絵画であれ、音楽であれ、身体表現であれ、優れた創作物には答えなどありません。映画も同じことで、この「もしもの愛 Possible Love」もそのひとつということです。

別荘には監視カメラがあり、使用人とチョルがその映像を見ていると思われるシーンがあります。チョルが車の中で吹く笛にしてもどうみるかはとても難しいです。それにドキュメンタリーを撮るというイ・イェジには当然映画監督であるイ・チャンドンさんの立ち位置というものが意識されているでしょう。それらをどう感じるかは我々観る側の問題ということです。

そしてもう一つ、この映画見て思うのは、こうした労働者のストライキ、労働争議というものが遠い過去のものとして消えてしまっていることです(特に日本では…)。すでに労働者という言葉も労働者階級という言葉が使われることが少なくなっています。「階級」というものには「連帯」というものが必ず付随します。あらためて時代は「連帯」という価値観を持ち得ない「格差社会」になったんだなあと思います。

消された「労働者階級」です。

余談:女性の裸は映画の武器か?

ところで、ふと、この映画でミオクが衣服を脱ぎ捨てて海に入っていくシーンがなかった場合、この映画を同じように受け取っただろうかと考えてしまいました。

そのシーンは「バーニング劇場版」でヘミが突然上半身裸になり踊り始めたシーンに匹敵するほどの美しさです。そのレビューには

庭先で三人でワインを飲み、大麻を吸います。日が落ちてあたりがオレンジ色に染まります。ベンがカーステレオから音楽を流します。マイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」です。突然、ヘミが立ち上がり踊り始めます。ヘミは特別高揚したというわけでもないのに、上半身裸になり踊り続けます。

むちゃくちゃ美しいシーンで、涙ができてきます。

と書いています。

女性の裸は多くの映画でそれを性的対象として描いているかどうかは別にしても映画的効果として利用されてきています。それはまた、映画の制作者たちの多くが男性であることの結果でもあります。

映画における女性の裸を女性たちがどう観ているんだろうとふと考えてしまいました。