しびれ

内山拓也監督に北村匠海さんと宮沢りえさんを生かすだけの術が不足している

北村匠海さんと宮沢りえさんの映画だと期待したけれど、どちらもその頑張ったキャラ作りほど映画的に生きていなかったです。シナリオが悪いということでしょう。いや、というよりもプライベートに納めておくべきことなのに、そこに今の日本映画にとても重要な二人の俳優を引っ張り出したのが間違いだったということだと思います。

しびれ / 監督:内山拓也

ネタバレあらすじ

大地、5歳くらい、10歳くらい

父親の母親への暴力を見て育ったために失語症になった息子の20年を追った映画です。

息子の名前は大地で、5歳くらい(穐本陽月)、10歳くらい(加藤庵次)、15歳くらい(榎本司)、そして25歳くらい(北村匠海)の4人で描かれ、言葉を発するのは5歳くらいのときに父親の暴力を見て「もうやめて!」と叫ぶだけです。映画終盤に、北村匠海さんの大地が言葉を絞り出すように呻くシーンがあります。

5歳くらいの大地のシーン、父親(永瀬正敏)が母親(宮沢りえ)に激しい暴力を加えています。ただ、その画はなく音声だけで、それを目をそらさずじっと見つめる大地のアップだけです。大地はおもらしをしています。このシーンの最後、大地は「もうやめて!」と叫びます。

父親の暴力シーンはこれだけで、父親がどういう性格で、なぜ母親を殴っているのか、また暴力は常時なのかどうかはわかりません。

5歳くらいのシーンはそれだけで、続いて10歳くらいの大地のパートです。大地は母親と建築会社の屋上のプレハブで暮らしています。電気も水を使える状態ではありますが、シーンの冒頭で水が出なくなっていました。そもそも個別に住居申請などしていないと思われますのでお金を払えなくて止められたということではないでしょう。

この映画にはそうした不可解なことがたくさんあるのですが、それらへの回答は一切ありません。

この映画がなにをやっているかと言いますと、たとえばこの10歳のパートでは大地が川に水を汲みに行ったり、他の家の軒先から野菜を盗んできたり、母親に出ていけと言われてたまらなくなって放浪したりするシーンが続くだけです。さまよってロシア人が集まる店(?)で母親を見るシーンもありました。もちろん台詞はなく、目に見える感情表現もありません。大地がなにを考えているかはわかりません。孤立している姿が描かれていくだけです。

母親はと言えば、ハデメイクをして2、3日出かけると言っていなくなるシーンと建築会社の社長と関係を持ったらしい後のシーン(この時大地に出ていけと言っていたと思う…)と、そして大地と二人でバスタブに浸かるシーンくらいだったと思います。

内山拓也監督としては大地と母親の深い愛のようなものを考えているんでしょうが、この映画のこの描き方でそれを感じろというのは無理だと思います。

ああ、忘れていました。このパートの最後にプレハブ小屋が燃えていました。これにしてもなぜかも誰がかも分かりません。

大地、15歳くらい、25歳くらい

15歳くらいの大地のパート、二人で母親の姉の住まいに居候しているようです。その姉はかなり厳しい戒律のある宗教の信者のようで、自分の部屋には入るなと言い、床には赤いテープが貼られて境界が示されていました。この特異な姉の存在がなにを意味しているのかはわかりません。映画終盤の母親の葬儀では葬儀場に入れないと言っていました。

母親のシーンは、男といるシーン、その男に暴行されているシーンだけだったと思います。多分、男に依存している女、暴行されても離れられない女という描き方だと思われますが、ステレオタイプな画に囚われすぎです。

それでも大地と母親の愛は切れなかったと感じてほしいというのも無理だと思います。きっとこういうことだろうと想像することと感じることとは決定的に違います。

このパートの大地のシーンは、万引きをしたり、父親に会おうと幼い頃に暮らした家を訪ねたり、しかしそこには別の家族が暮らしており、落胆して駅舎で一晩明かし、家に帰り母親の醜態を見て何もかも嫌になり(なのかどうかはわからないけれども…)海に入って死のうとするもロシア人に助けられて終わっています。

25歳くらいの大地のパート、やっと北村匠海さんの登場です。遅すぎますね。大地はバーテンダーでありヤクの売人で稼いでいるようです。顔や首にもタトゥーがあります。乗る車や着ているコート、それに生活スタイルで人物造形する意図が見えてます。台詞がありませんし、感情を表に出すシーンがありませんのでそれでやるしかないということでしょう。

母親から高齢者施設にいるから会いに来てと手紙が来て会いに行きます。大地はお金(100万くらい…)を渡そうとしますが母親は父親がお金を送ってくると言います。母親は自分は悪い母親だったと謝っています。大地は包丁を持って父親の家に向かいます。父親も自分は悪い父親だったと謝ります。大地は父親を刺します。

月日が経ち、母親の葬式です。大地は棺桶に横たわる母親の頬に触れて、ビールふた缶を入れていました。父親がお腹を抱えてやって来ます。父親が深く頭を下げ、しばらくして大地も同じくらい深く下げていました。葬儀が終わり、車に遺骨と遺影を載せて走っていきます。

車のエンジン音を残してエンドロールでした。

感想:思いに技術が追いついていない

むちゃくちゃ厳しいことを言えば、思い上がりです。

これで分かるだろう、あるいは分かってねと言っているだけで、そもそも思いそのものが映画に現れていません。すでに書いていますが、やっていることから想像できることとそれを感じることとは次元が違います。

その違いは映画を作る技術の問題です。どんなに力のある俳優を使い、その俳優がどれだけ力を込めても、シナリオ、監督など映画制作者に映画を作る技術がなければそれは単なる独りよがりでしかありません。

ところで最初に書いたプライベートに納めておくべきことと書いたのは内山拓也監督の母親への個人的な思いであって、客観視された母子の愛憎や関係を描くことを指しているわけではありません。ましてや仮に大地のような環境に置かれた子どもがいるとすればその問題のことではありません。この映画にはそうした視点がないということです。

あらためて思い返してみれば、初めて観た内山拓也監督の「若き見知らぬ者たち」も同じように不幸は描いていますがそこに社会的視点がありませんね。

レビューを読み返してみましたら、「興味深い映画だけれども、残念なのは映画のつくりがあまりよくないこと」と書いています。