ゴダール監督の即興性、偶然性を60数年後の技術で完コピすることの意味はどこにある?
リチャード・リンクレイター監督が「勝手にしやがれ」撮影中の1959年に舞い降りて、ジャン=リュック・ゴダール監督を撮ったような映画です。言うなればメイキングの再現フィルムみたいなもの、そこから何を感じるかはヌーヴェルヴァーグという言葉を聞いて何を思うかで大きく変わる映画です。

映画は監督の楽しみの結果
それにしてもリンクレイター監督はいろんなことに挑戦的です。「ビフォア三部作」に「6才のボクが、大人になるまで」、そしてこの「ヌーヴェルヴァーグ」、他にも私が観ていない挑戦的な試みがあるかも知れません。
上の三作のうちの過去の二作は時間経過をそのまま映画にしています。「ビフォア三部作」は同じ俳優を使って9年ごとの同じ人物の連続した関係を描いていますし、「6才のボクが、大人になるまで」では6才の少年のその後の12年間を描いています。もちろんドキュメンタリーではなくフィクションのドラマ映画としてです。
どちらもリアルな時間経過をフィクションの中に取り込むことで共通しています。リンクレイター監督の興味ポイントはそこにあると思われます。その点からこの「ヌーヴェルヴァーグ」を見てみますと、やはり一番のポイントは「勝手にしやがれ」撮影現場をどこまでリアルに再現できるかでしょうし、これはもうすごいレベルに達していると思います。
ただ問題は、こうした再現ものはややもすれば感傷につながりやすく、ゴダール監督やヌーヴェルヴァーグを知っていれば、ああ、こんな感じだったのかなあと感慨に耽ることも出来ますが、その時代を知らなかったり興味がなければ何をやってんだかよくわからない映画にもなってしまいます。60数年前がどのように今につながっているかを見せられるかだと思います。
まあそうは言ってもリンクレイター監督の本音としては本人がヌーヴェルヴァーグの気分を味わいたかったということじゃないかと思います。ある意味、映画というものは監督自身の楽しみの結果と言えなくもなく、その点ではかなり楽しんだんじゃないかと思います。
いずれにしても、この映画を観るのであれば、まずは本物(?)を観てからにしたほうがいいとは思います。なお、「勝手にしやがれ」の原題は「À bout de souffle」で、Google 翻訳では「息も絶え絶えに」となります。
再現度はいかが?
リンクレイター監督のキャスティングへのこだわりは相当なもので、オリジナルのハリウッド俳優のジーン・セバーグとフランスの無名俳優ジャン=ポール・ベルモンドの組み合わせを、同じくハリウッド俳優の、私の見ている映画では「ゾンビランド ダブルタップ」「グッバイ、リチャード!」のゾーイ・ドゥイッチさんとフランスのほぼ無名のオーブリー・デュランさんで再現しています。
この二人、かなりの再現度ですね。オリジナルがありますのでわりと楽なのかも知れません。
ゴダール監督については、私は映像で見たことはほとんどありませんので似ているかどうかはよくわかりませんが、見たり聞いたり読んだりして漠然と持っているイメージがそのまま人物として現れたような感じでまったく違和感がありません。演じているギヨーム・マルベックさんは「映画監督、脚本、編集、撮影、作曲までこなすマルチクリエイター(公式サイト)」と紹介されています。
他にも当時の映画関係者がたくさん登場し、みな著名な人ばかりです。いくら名前を知っていても、いくら似たような俳優を使っても(かどうかもわからない…)誰が誰だかわかりません。さすがに説明なしじゃと思ったんでしょう、新たな人物の登場の前にはその人物のフルショットにテロップで名前を入れた紹介カットが入ります。それでもわからなくなっちゃいますけどね(笑)。
撮影の進め方や撮影方法は映画を観てのとおり、当時の熱気とともに俳優やスタッフの困惑も感じられ、こんなふうに撮っていたのかなあとまさしくメイキングを観ているような映画です。
スクリーンサイズもオリジナルと同じアカデミー比率のスタンダードでモノクロです。ただ当時のパリの街並みを実写で再現することは無理ですのでおそらく VFX が多用されていると思います。
という再現度は相当な「ヌーヴェルヴァーグ」です。
感想:再現性が高いゆえの皮肉
というリンクレイター監督のゴダール愛の映画ですが、考えてみれば、ゴダール監督の特徴である即興演出による生き生きとした現実感や再現のきかない偶然性が、あろうことか徹底した準備と演出と技術によって再現されることはなんとも皮肉なことで、観ていてもどことなくもぞもぞした気持ちが残る映画ではあります。
その気持ちは「ブレードランナー2049」を観たときの感覚によく似ています。