言葉の沼にハマり映画の力を信じられなくなった濱口竜介監督
今年2026年のカンヌ国際映画祭でヴィルジニー・エフィラさんと岡本多緒さんが女優賞を受賞した映画です。まだひと月ほど前のことです。濱口竜介監督としては3年ぶりの最新作です。

ネタバレあらすじ
率直な感想を言えば、濱口監督は映画の力を信じられなくなっちゃったのかなあです。
出だしの30分くらいはとても面白く見たんですが、それ以降のマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)と真里(岡本多緒)の二人芝居は経済学か介護学の講義を聴いているような映画でした。
簡単に言いますと言葉が過剰です。
言葉が過剰、台詞が窮屈
それに、ヴィルジニー・エフィラさんの方はフランス語ですのでどうだかわかりませんが、岡本多緒さんは、例の濱口メソッドの台詞の棒読みが抜けておらず最初から最後まで同じトーンと間合いで台詞を発しますので台詞に広がりがありません。
真里の人物背景が見えてこないんですよね。言葉では留学したとか哲学を学んだとか語っていますが、それらが真里という人物に結びついて見えてきません。演出家であることも、それにあの演劇はどのようにつくられ、どういう興行形態で行われているのかとか、そうしたことが見えてこないと真理という人物が存在しているようにはみえません。私には岡本多緒さんとしか見えてこなかったということです。
ヴィルジニー・エフィラさんは「ベネデッタ」でタイトルロールを演じている俳優さんですのでよく記憶しています。
ただ、力のある俳優さんではあっても存在感という意味ではあまり印象に残る俳優さんではありません。この映画では日本語の台詞もそれなりにあり、あれだけ言葉としては流暢に話すのにそこに気持ちが乗っかっていないというのはやはり濱口メソッドで本読みをやっているんでしょうね。
結局のところ、濱口メソッドはそれが機能するかどうかは俳優次第ということだと思います。何にしてもこの映画の二人芝居のシーンは映画として窮屈すぎます。
出だし30分と演劇はいいんだけど
冒頭30分くらいはマリー=ルーが施設長を務める介護施設のシーンです。これはよかったですね。濱口監督、よく撮ったなあと思いながら見ていました。
マリー=ルーは「ユマニチュード」というケア技法の推進者です。
ユマニチュード(Humanitude)とは、「人間らしさを取り戻す」という意味を持つフランス発祥のケア技法です。相手に「あなたを大切に思っています」というメッセージを伝えるため、「見る・話す・触れる・立つ」の4つの基本原則に基づき、信頼関係を築くことを最も重視します。
(Geminiから)
変革には抵抗がありますし、そもそもの介護業界の人員不足や過重労働の構造的な問題がありますし、経営陣からは経営効率を問われます。映画では、賃金が低いために辞めて起業するという介護士やベテランの看護師との意見対立が描かれています。
ある日のこと、マリー=ルーがトラムに乗っていますと少年がそのトラムを追っかけるように走ってきます。気になったマリー=ルーはトラムを降りて少年を探します。少年は自閉症らしく GPS を身につけています。少年と会話しながらしばらく待ちますと真里と吾朗(長塚京三)が駆けつけてきます。真里はお礼を言い、演劇「Da vicino nessuno è normale(近づいてみれば、誰もまともな人はいない)」のチラシを置いていきます。
施設内のミーティングです。マリー=ルーが新しい試みの提案をしますとベテラン看護師から反対意見が出ます。マリー=ルーはつい強い口調でベテラン看護師を押さえつけてしまいます。その後悔からなのか(映画からは読めない…)、突然思い立ち(と見える…)マリー=ルーは真里の演劇を見に行きます。
マリー=ルーは感動し、上演後の Q&A で感想を述べ、真里と交感します。
そして交流が始まります。
講義を受けているような会話劇
これ以降は、二人芝居が1時間くらい続いていたんだじゃないでしょうか。
パリの街を歩きながら話し、セーヌ川のほとりに座って話し、そして介護施設でも話し、どれだけ話しても話し足りないようです。
演出的にはそういうことですし、真里はすでに書いたように同じテンションで話し続けますので話し足りないというのであればそうなんですが、マリー=ルーには真里ほどの欲求は感じられません。
結局、マリー=ルーと真里が惹かれ合ったと描かれていることにどうしても実感が伴ってきません。お互いに言葉ではそう言っていますし、その後も最後まで極めて親密に交感があるような台詞を言い続けています。でもやはり、マリー=ルーがあの演劇のどこにあの感想の言葉ほどの感動を得たのかがわかりません。
そのことで思い出すのがペドロ・アルモドバル監督の「トーク・トゥ・ハー」です。
その映画では主人公のマルコがピナ・バウシュの「カフェ・ミュラー」の舞台を観て涙を流すのです。感動=涙というわけではありませんが、映画的表現として感動をどう表現するかという意味では、言葉で感動したと伝えることはかなり難しく、この映画のマリー=ルーにそれができているかと言えば疑問を感じざるを得ません。
という同じ意味において、その後の二人の交感しあう1時間のシーンもとても映画的とは言えません。究極は真里がホワイトボードまで使って資本主義の矛盾と限界を語るシーン、これは映画的にはあまりにもおぞましいシーンだと思います。
かなり厳しいことを書いてしまいました。
いずれにしても、この二人の交感シーンの後にしてもかなり冗長ですし、わざわざ二人で真里の京都の住まいへ行く必要があったのかと思いますし、そこで終わるのかと思いましたら、そこからまたパリに戻り、真里が施設のワークショップのコーディネーター兼入所者となります。
最後はマリー=ルーが真理との出会いによって自分の中の壁、それはある種の境界ということだと映画は語っているわけですが、その境界を超えて資本主義を包摂するより良き未来に向かって歩んでいくというエンディングを迎えて映画は終わります。
感想、考察:言葉の饒舌さに酔っている
なかなか日本の監督が海外で映画を撮るというのはハードルが高そうですので、その意味ではこれだけの映画を撮った濱口監督の力は評価されていいいとは思います。
ただ、濱口監督の目指している映画というものがどういうものなのかはよくわからないですね。私が濱口監督を知った「寝ても覚めても」は、その年のカンヌのコンペティションに出品された「万引き家族」よりも私個人の評価は高かったのですが、その後の「ドライブ・マイ・カー」では話が複雑になりすぎてテーマが見えなくなっていますし、「悪は存在しない」も同じような意味でやりすぎて映画のバランスが崩れています。
この映画もやり過ぎています。言葉の饒舌さに酔っています。
それに介護の描き方にしてもファンタジー過ぎます。映画の中でもマリー=ルーが構造的問題だと語っている介護の現状へのコミットメントをしないままにユマニチュードでそれらも解消するような描き方をしています。仮に解消するとするとしてもそれは裕福な入居者を前提にしたごく一部の介護施設の話です。
足裏マッサージで効果が出て皆歩くように描いていましたが根拠のある話なんでしょうかね。